2008年2月24日日曜日

私の宝箱




 数年前実家(新丁)の兄が、家の改築前に物置をかたずけていて、でてきた「しづさんの宝物」だよと A3の大きさの箱の風呂敷包みを持ってきてくれました。それは元は緑色だったのでしょうが大分変色していました。

それを、また物置においていたのを思い出し今日出してみました。
中には小2~高3までの通知表、卒論の原稿や記録、主人からの手紙(勿論独身時代のです)等などが入っていました。
 そして、なぜか小学校2年生の「絵」が24枚はいっていました。
その「絵」は大きいのはB4が3枚あとはB5の大きさですが用紙は「ワラ半紙」でもう所々破れており、クレヨンで
隅々まで染めておりますが蝋質が多く色ののりが良くなかっ
たんですね~。
その中の1枚、祖母と寝ている絵がありました。、枕元に
はきちんとたたんだ洋服とカバンが置かれています。いつでも、
空襲がきたらすぐ着替えて、大事なものを持って逃げるように
と教えられた習慣でいまでものこっています。

空襲警報で逃げた記憶は1度しかありません。でも1枚のフイルム
のように鮮明に記憶に残っています。
小学1年の6月に父が病死しました。当時教員の待遇改善に奔走
し戦後の混乱の中、東京と上山を行き来している間に腎臓結核に
罹り2年くらい闘病し42歳で他界しました。大阪城内の教育の塔に
名前が刻まれていると聞きましたが見ていません。

そんな訳で2年生の頃は暗い性格だったようです。担任の富士(尾
形)たか先生(上山市西山町にご健在)の通知表の通信欄に書い
てありました。
明るく性格が変わっていったのは3年生でクラスも変わり、島貫(林)
由子さんと同じクラスになって家も近かったせいか仲良しになってか
らのように記憶しています。皆川みどり先生の通信欄にも書かれて
います。
4年生になって各クラスから6~7人集められて8組が出来ましたが、
それ以後、チビさん3人組オテンバさん(私、M.Kさん、H.Kさん)
がリードしたようです。新しい校舎が出来る前にたまたま教室が隣
り合わせた妹から「お姉ちゃん、もっとおとなしくして、でないと 8組
の男の子に私がいじめられる、、、。」と言われたことが有りました。

3年生の通知表の校長名 中村四郎先生の名前が=線で消されて
校長事務代行 大武重雄先生の判が押されていたのを覚えていま
すか?昭和26年1月(?)山元街道の洞門のところで酔って寝てし
まい凍死したのでした。
 中村校長は両親のお仲人さんで小さいときから訪ねていたので
家族中ショックだったのを覚えています。そして、そのときのPTA
会長だった原田修一さん(主人の父です)と列車事故で亡くなられた
女性の先生(名前は忘れました)との合同お別れの式を寒い体育館
でしたのを覚えています。
3年生の通知表の表紙をみて改めて思いました。

 宮川に白鳥がきていると聞きましたので、先程いってみました。
けれども、どこかに出かけたようでいませんでした。カモだけ数羽
およいでいました。
 ジローさんが泳いだ川(宮川)の今の様子をみてください。 

2008年2月21日木曜日

「疎開」と小学校入学の頃

 12月9日の有志懇親会でジローさんと久し振りに会い「私kasのことは印象に残っていない。」と言われました。前に旧姓羽島トミ子さんからも同様に言われました。

 この時小学1年の時に母から与えられた教訓「大きい川は、静かに流れる。」を実践できたと私は少しうれしく思いました。二人とも中三のF組一学期は、旧姓岩瀬明子さんと私が共に学級委員を奥ゆかしく果たした事実を想い出して貰えなかったのです。

 さて私は、横浜市鶴見区で生れました。当時父親は「いすず自動車川崎工場」の軍用トラック検査係長で、中国戦線向の生産に大車輪でした。従って待遇がすこぶる良く、3人の兄姉はもちろん幼稚園に入り、「キンダーブック」なる幼児教育用の月刊誌をとり母が丁寧に読み聞かせていたようです。

 しかし戦争が激しくなり、昭和20年3月10日の東京大空襲を父親が多摩川のそばの川崎工場で見て両親の故郷上山に3月末に「疎開」することを決断しました。その時私は満三歳4ヶ月でしたがその前後の有様が今でも思い出されます。衣類は着られる限界まで重ね着し、満員の奥羽線夜行列車に家族で乗込みました。板谷峠でのスイッチバックの車両の振動、上山駅で窓からの下車、汽車の煙のにおい等緊迫した中で強く印象に残っています。

 その後兄姉三人は、小学校に入りましたが、残酷な厳しい「いじめ」に遭いました。服装、言葉遣いに違和感を持たれ、異邦人のように扱われたのでしょう。

 母は私の入学時いじめを心配して「疎開の話はタブーにするよう」指示しました。私自身は①口喧嘩では負けないこと②力の暴力は素早くかわすことを真剣に心掛け若干元気すぎたようです。

 幸い良い友人たちに恵まれ登下校は楽しいものでした。近くの宗川利宏君とmaruabeさんの家にほとんど毎日押し掛けました。そして私は国語の本を取り出しいつも音読していました。市長をやられた阿部さんのお兄さんからうるさかったのでしょう目読のしかたを教わりました。毎日毎日国語の本を取り出して読んでいるうちに、ついには裏表紙が外れてしまいました。これを見た担任の先生は、3学期の通信簿に私の性格が「乱暴で粗雑」と書きました。

 プロテスタントだった母親は、大変悲しがり文頭の「大きな川は、静かに流れる」と性格を変えるよう判り易く諭してくれました。 その母親も2000年まじかに静かに逝き今はもういない。

                   2008年 2月  柏倉 孝

2008年2月17日日曜日

夏の思い出

 小学生の頃の冬の思い出としては、月岡公園の坂を竹下駄で滑った事、など楽しい思い出として残っています。

 又夏の思い出としては、学校から帰宅するとすぐランドセルを放り投げて、裏庭の畑からキュウリを2、3本獲りそれからシュミーズ(今でいう水着の代わりのもの)に着替えて、近くの下級生を誘い、犀川(?)に泳ぎに行ったものです。線路を越えると畑の中を走り抜けて、河原に到着するや否や洋服を脱ぎ捨てて、ザボン、という感じです。当時からお転婆で、土手から飛び込みをやったり、川の中に潜って泳いだりと・・・それは楽しい思い出でした。

 しかし、どういう訳か、顏を川面に上げると身体が沈んでしまうのです。
結局の所、こんな過激(?)な経験をしたにも係らず、最後までカナヅチでした。

 帰りは疲れた身体を支えながら、それでも線路の所に来ると、決まって線路に耳を付けて、振動を感じたら汽車が近くまで来ているのだと思ったり、この線路の先には東京があるのだなあ・・・等と遠い東京に思いを馳せながら、帰途についたものでした。

 良い思い出の一コマです。

2008年2月12日火曜日

カセ鳥祭り


 カッカッカーのカッカッカー。カセ鳥、カセ鳥カッカッカー


奇声をあげながら踊り歩く上山のカセ鳥祭をご存知ですか?


カセ鳥は「火勢鳥」「稼ぎ鳥」を表し、頭から冷たい水をザンブリ


とかけ火の用心、商売繁盛を願った真冬の奇習です。


月岡公園の北東側にある古峯神社で祈願式をしてから街の中


を歩きます。


もともとは江戸時代の旧正月に行われていた行事だそうです。


それを昭和61年に「カセ鳥保存会」を発足させ、秋田県田沢湖


町の民族舞踏団「わらび座」のアドバイスをうけて振り付けを創


作し笛や太鼓のオリジナルの鳴り物で練り歩きます。


 パンツとさらしだけの裸の上にけんだい(みの)を着て


上から冷たい水をかけられるので 一時なり手がおらず大変


でした。今はテレビで奇習カセ鳥として取り上げられるようになり


また、ネットでひろがり、東京や九州からも駆けつけてくれ


ているそうです。保存会の方々、関係者の方々の努力の結果


ですね。毎年2月11日お城~十日町~湯町~新湯~カミン前


温泉駅前~高松葉山などで見られます。ブログのサイドバーの


上山観光協会にリンクしてみてください

携帯からです

雪かと思えば翌日の今日は晴天 雪はどこなの?とすっかり消えています 埼玉県は 住みやすい かな・ 私は 公民館で大極拳を約十年 続けています。深い呼吸とゆるやかな動きが性にあうのか 大好きです。よき仲間にも恵まれ 必ずランチを 楽しんできます。その時の会話がとても役に立つのです。わたしが一番年上なのですが 健康の事 食生活 ショッピングどこが一番安いかとか その時その時の時事放談 今なら確定申告 年金とか 年輪を重ねたおばさまたちの経験豊かな話で 盛り上がります。尾道出身 岐阜 群馬 名古屋 四国それぞれで お国自慢がとびだします。わたしは お蔭さまで 山形名物 いや 上山自慢がたくさんあり 我が家で芋煮会を開き大好評でした。その時のこんにゃくも大喜びで 実家にお取り寄せで送ったら また そこから輪が拡がってーと。尾道の人に褒められ
ました。楢下のこんにゃくやさんですが ご存知ですか?黒豆風こんにゃく 胡麻こんにゃく キムチ風 いろいろです。話が逸れましたが 言いたかったのは お茶を挽いて 茶葉も茎も全部飲みほす事に 大極拳仲間が 凝っている という事です。茶からを捨てる煩わしさもありません 体に好いこと この上ないと思います 私 29年卒のブログに ふさわしいものをと 思い描くのですが すぐには 出てこなく 近辺の話題となりました。徐々に 徐々にです。お待ち下さい とん

2008年2月9日土曜日

齊藤菊子(旧姓若生)先生との懐かしい再会

 私は、菊子先生から1年の時1週間程と3~4年の時(6組)にお世話頂きました。

その後連絡が途絶えていましたが、鈴木展夫様と宗川利廣様の尽力のお蔭で「菊子先生を囲むランチ会食」を2006年9月30日正午に山形市内のホテルで開催することができました。

 前日は学年全体の同窓会があり、翌日の同級会になってしまった私の急な企画でしたが、参加者は7名と御協力いただきました。茨城の遠隔地からの幹事としては、予想より成功ではなかったかと思いました。(見たことが無い会場を勝手に予約するのはかなりの図太い神経が要りました。)

 当時の疑問のことが次々に明らかになりました。1年の時の担任のY先生への突然の交代なども中村四郎校長の苦しい熟慮の結果だった事実が明かされました。

 また4年から5年になる時新設の8組に何人かが移っていったことが判りました。新潟から参加した森井幸子さん(旧姓井上-押し花作家8人衆の一人で全国的に出張講師で活躍中)や山口康夫さん(今回不参加)などの方々です。

 山形の会場にはJRの電車で大沢澄子さん、森井さん、石井勝之さんと一緒で楽しいひとときでした。車中で、石井さんが自分のことを先生が覚えているか心配していました。しかし先生からその年亡くなったばかりの石井君のお兄さんの話が出て心配は一気に吹き飛びました。先生の記憶は2度の家庭訪問で様々鮮やかに残っているようでした。昭和元年生まれの先生は、女子師範時代の勤労動員で中島飛行場にて米軍の爆撃で同僚を失うという恐ろしい体験をなさったそうです。

 短い時間でしたが54年振りの再会は、文字通り楽しい思い出になりました。種々の事情で参加できなかった方々もいらっしゃるようですので、もう一度しっかりした企画で是非再開催できるよう祈念しています。

          2008年2月      柏倉  孝

皆様、お気軽に投稿を!!

 関東地域は今雪が降っています。夜半の降雪が予報されていますが、明日は雪一面となるのでしょうか。

 さて、このブログが出来てから、ほぼ1ヶ月が過ぎようとしています。
 登録メンバーも7名に増えました。この数は、チームブログとしては多い方と思いますが・・・

 ところで投稿文を見ますと、同じ方の投稿が多く、どうしたのかしら?と思っています。
どうぞ、お気軽にご投稿下さい。内容は何でも良いと思います。私などはだんだん種切れがしてきました。何しろ無芸大食を誇りに思っている位ですから。(でも、この大食が私の健康維持の元なのです。)

 まず、小学中学の思い出、その後の事、日々感ずる事、趣味、家族のご紹介、地域の紹介等等どうぞ~。
 投稿の仕方が不明の場合は、いつでもご質問下さい。

 幽霊メンバーにならない様に。幽霊になるのはまだ早いでしょ。

2008年2月8日金曜日

山形美術館


 皆さん山形市の霞城公園東大手門前にある山形美術館をご存知でしょうか。今日(8日)、久しぶりにこの山形美術館に寄ってみました。
 目指したのは2階奥にある常設展示場「吉野石膏コレクション室」です。ここにはルノワールの「幼年期」やゴッホの「雪原で薪を集める人々」、モネの「サンジェルマンの森の中で」など、教科書に出てくるような絵画が50点近く展示されています。

 シャガールやユトリロ、セザンヌ、ピカソ、ルオー、ローランサン等々の作品もあります。世界の巨匠たちの絵画を直接、鑑賞できるため、これまでも何度か足を運んでいるコーナーです。

 南陽市出身で吉野石膏の社長さんが収集した作品群だそうですが、山形自慢の「名所」と思い、遠くから訪れた知人、友人には例外なく案内したり、紹介している所でもあります。たいていは「なぜ山形にこれほどの作品がこんなに沢山あるの」とびっくりされます。

 皆さんも帰省された降りには、ぜひ立ち寄ってご覧になってください。きっと満足いただけるとおもいます。そして古里自慢の一つに加えていただけるかもしれません。

2008年2月4日月曜日

アケビの甘辛味噌は母の味です。

 とんちゃん、携帯からの投稿ありがとう。

 とんちゃんとは同県人ですね。私はどちらかというと西部ですが、鴻巣は中央部なのでしょうか。

 私の住む日高市は以外と上山に似ていて、四方とは言わないまでも、三方には山を望む事ができます。家はニュータウンなので、似た様なスタイルの家が鰻の寝床の様に建っていますが、ジローの散歩がてら外周に出ると、日和田山、遠方には三峰山、秩父連峰等を見る事が出来ます。間近に見える日和田山など上山の三吉山に良く似ています。都心から帰って来た時などホッとします。自然がいっぱいの地域です。

 さて、丹精込めたとんちゃん家のお庭が目に見える様です。我が家の庭等は、ジローの専用庭と化し、穴ボコボコというところです。

 「アケビの甘辛味噌いため」懐かしいですね。良く母が作ってくれました。最初は私が果肉を食べ、その後その部分に甘辛味噌を詰めて、確か表面を油炒めしてくれたと記憶していますが。
 でも、母の味を私は再現する事が出来ないばかりか、料理があまり好きでなく悩みどころです。
 どちらかと言うと、パソコンの合間に家事をやる、という感じです。自慢する話ではないのですが・・・・・
 二枚の画像は主人が撮ったものです。ジローの散歩の時撮ったのでしょう。
 遠方に富士山が見えますね。
 上部の画像は高麗川で、県下一の清流と言われています。時々ジローの散歩に訪れますが、ここでも、ジローを解放してやります。透明度が高く、水底まで見る事ができ、ちょっと風がある時など、水面に小さなさざなみが起り、それはそれはとても美しい流れです。
 じっと水面を見ているとストレスも殆ど飛んでしまいます。ジローと私のお気に入りスポットです。

はじめましてこんにちわ

携帯からの投稿です。私の住んでいるところは埼玉県北部に位置します鴻巣市です。咋夏に最高気温を 酒田を抜いて一日だけでしたが 記録した熊谷市の隣町です。関東平野のど真ん中なのか平坦で 上山育ちの私には 窓を開けると間近に蔵王連峰を見ることができたので なにか物足りなさを感じる風景です。ですが 我が家の小さな庭には 上山からもらってきたあけびが テラスの柱をつたわり 軒下を横に這って つる薔薇のアーチに 絡まり 見事な実をつけます。近所の方にも おすそわけをして 喜んでもらってます。子どもの頃には いやだったあけびの甘辛味噌炒めを夫婦そろって 「うまいねー。」と 楽しんでいます。ちなみに 主人も上山出身なので 食に関しては同じ味好みなので 助かります。その他 米沢のうこぎ 孫の好物の巨峰 山形のだしに欠かせないみょうが ハワイから持ってきたジンジャー 父の好きだった
というすずらん等 狭いけどいろいろ植えてます。パンジー サフィニア 花いっぱいの時もありましたが 今は宿根草で 楽な庭作りをしています。さて 半世紀?ぶりのみなさんとの交信 いろいろ記憶がよみがえり、呼び起こされ 頭の体操にも良いみたいですね。これからも よろしくおねがいいたします。とん

2008年2月3日日曜日

懐かしいです~。

 雪の中を写真を撮っていただき有難うございます。
 靖子さんのカメラワークは抜群ですね。

 一枚目の写真は正門ですね。ちなみに掲載写真は約55年前の確か正門で撮った写真だと思います。(6年5組の皆様、無断掲載スミマセン)

 二宮金次郎は、確か正門入って左側にあった様に記憶してますが。


 四枚目の写真も懐かしいです。公園のてっぺんから竹下駄ですべって来る訳ですが、このカーブが難所で、ここを無事曲がりきるとあとは桑原八百屋さんまで直滑降。時には、下駄の竹が取れると、そのままよねや旅館の裏手にあった下駄屋さんに駆け込んで修理をしていただき、また蟹股スタイルでてっぺんまで上り直滑降、本当に日暮れ時まで滑っていました。

  五枚目の写真は校舎の全景ですね。
 白禿山は今はふさふさ・・・夫が聞いたらさぞ羨ましがる事でしょう(笑)

 火災で焼けたものの今も健在の我が母校にホッとしました。

 どうも有難うございました。

上山小学校の今




今日は節分、四季(立春、立夏、立秋、立冬)の前日を節分というのだそう

ですが、今日を節分と言うのが一般的ですよね~。

なんと関東方面は大雪、ブログにも首都圏の雪が報じられています。交通

事故や転倒事故が心配ですね、、、。

こちらは青空ではないですが、日中穏やかな天気でしたので、買い物がて

上小まで行ってみました。

車のかげで見えにくいですが、昔の正面入り口の、石垣や松の木は以前

のままです。プラタナスの木々も道路沿いに立っています。

そして、二宮金次郎さがそのままありました。バックの木もあるいは昔の

ままなのかもしれません。

月岡への道をたどると、レトリバーを散歩する人が通りましたが日曜日なの

で子供らの声はありません。でも昔雪が多く竹下駄をはいて4~5人繋がって

 桑原八百屋さんの角を曲がってよねやの坂を下り丸やさんの前まで滑って
いったことが思い出されます。ここまですべりに来るのは、常には新丁の切り

どうしで滑っているので遠征気分だったのです。 こんな事を思いながら、

ゲレンデの上に出ました。グランド側からの今の校舎の一部です。バック

の山は「白禿山」です。後はタカシンザンです。

お城の公園の道を行くと、お城の北側に2mくらいの「つらら」ができており

ました。 それでは、季節が変わったらまた同じ場面をアップしてゆきたい
と思います。お楽しみに!!




2008年2月2日土曜日

小学校北体操場の思い出

 小学校の時、北体操場があったのをご存知ですか。南体操場に比べると何故か寂しい場所で、あまり行きたくない場所だったのを憶えています。

 小2年の時親にピアノを習わされ(自分の意志とは別に)、家にピアノが無かったので日曜日に北体操場の壇上にあるピアノをお借りして、1人で練習したのを憶えています。
 静まり返った体操場で下手なピアノの音だけが響く寂しい日曜日に耐えきれずギブアップしました。
 
 でも、ピアノの川口先生(若く、いつもポマードでピカピカ頭の先生です)がとても好きでした。かなり当時からませていたようですね・・・

 ところで北体操場は、卒入学式とか朝礼とかの時だけ使っていたのでしたっけ? あの場所で、バスケットとかやった憶えはないのですが。

2008年2月1日金曜日

英国人女性旅行家イザベラ・バードのこと


 前回のブログ、イザベラ・バードkasiさんからコメントがつきましたので

少し調べてみました。

 イザベラ・バードは1831年英国ヨークシャーに生まれ、1854年から

アメリカ、カナダを旅し、次いでオーストラリア、ニュージーランド、ハワイ、

ロッキー山脈、1878年に日本、香港、マレー半島、カイロ、その後カシ

ミール、チベット、インド、モロッコなど70歳になるまで世界を旅行探検し

ました。


 明治11年(1878)5月21日、イザベラ・バードは太平洋を横断し横浜

に上陸しました。しかし、横浜や東京とは違う「本当の日本」を見たいと

いう思いで、外国人にはほとんど知られていなかった「北国」へ旅立ちました。


 バードが「北国」へ旅立ったのは6月10日、持ち物はゴム製の浴槽

旅行用寝台、折りたたみイス、空気枕。英和辞典などだったそうです。

そして、18歳の男性通訳・伊藤を伴って馬で日光から会津、新潟を経て

小国~小松(泊)、置賜盆地~赤湯~上山(泊)~山形~村山盆地~

金山(泊)そして秋田青森、北海道と踏破し函館から船に乗って9月17日

に横浜に戻りました。


 全行程1600キロ3ヶ月余りにおよぶ大旅行の記録は2年後「日本の未

踏の地」(日本奥地紀行)としてイギリスで出版されベストセラーになりまし

た。

 上山の記述は「第18信上山にて」記されています。(高橋健吉訳

イザベラ・バード「日本奥地紀行」)


そして、上山で宿泊した旅館はいまはありませんが、「よねや旅館」の前身の

「会津屋(河合長六氏)」のようです。会津屋は明治14年明治天皇が行幸の

折(御昼食)の行在所でもあり、そのとき羽二重壱疋、金五拾円、菊の御紋章

を賜っています。

 主人の曾祖父の原田藤左衛門が明治38年に「会津屋」を買い取り「米屋

旅館」として営業しました。よねや旅館も平成4年にクローズして今はありません。


 イザベラ・バードの日本奥地紀行を2006年10月、それまで、未訳になって

いた置賜地方の記述や省略されていた関西地方の旅行記を4年間かかって

完訳した山形大学名誉教授の大津 高先生(私の恩師)からいただいた今年の

賀状に「I.Birdnの日本紀行を訳しています。彼女の上山の宿は会津屋

だったと言われています。あなたのお家の宿だったのではないですか?」

とありました。ので、イザベラ・バードが上山で宿泊した宿は以上のようです。