2008年3月31日月曜日

「1年3組の写真です」について

うーん、まさかこういう写真が出てくるとは予想しなかった。
 
 確かに古いアルバムにあるはずだ。これまでずいぶんと転居を重ねたが大事に持ってきたはずだ。と、かなり真剣に探したが見つけられなかった。もう諦めた。いつか出てくるだろう。その代わり、前に探した時どうしても探せなかった写真が出てきた。
 
 これは2年生の時の写真じゃないかな。ひろちゃん(佐藤博君)は同級生ではなかったのか、小池國男はどれだろう。そうか、原田君は「せいじん」君だったのですか、今まで「せいじ」君とばかり思っていました。まことに自分の記憶の頼りのないことよ!枝松先生が肩に手を置いている子は池田正男君といい3年生になってから転校しました。彼についていつか書くことがあると思います。
 
 1・2年生のころは、昭和23,4年のころと思うが、戦後わずか3,4年であり、すべてに貧しかった。何もかもに飢えていた。ただ、時間だけは無限に近くあり退屈だった。美空ひばりがデビューし始め、東京キッドの歌声が流れた。サマータイムが実施されたこともある。教員のレッドパージも始まった。古橋が世界記録を樹立した。湯川博士のノーベル賞受賞。ざっとこんな時代だったようです。
 
 

nobu

2008年3月30日日曜日

草葉の陰

 少し話が古くなりますが、去る3月20日、彼岸の墓参りに行ってきました。寺は上山の寿仙寺。墓前に立つたび頭に浮かぶ言葉があります。
 「小笠原さん、文字通り“草葉の陰”ですな」―。33年前の秋、父親の納骨の際、先代の住職が耳元でそっとささやいた一言です。
 墓の周りはまさしく雑草が伸び放題。如何に寺へ足を運んでいないか一目瞭然でした。「さすが住職、上手いことおっしゃる」と開き直っても、内心は赤面のいたり。今も深く胸に突き刺さっています。
 長男でもあり、努めて寺へ足を運ぶようにしておりますが、実際には上山に住む弟が主体であったことは否定できません。33回忌が済んだことでもあり、恥を忍んで記してみました。

2008年3月28日金曜日

一年三組の写真です。

 ほぼ60年前の写真を滝さんに送っていただきました。
 担任の先生のお名前が思い出せなくていたところ、先日のノブさんの投稿文で枝松先生である事がわかりました。

 確か、向かって右側に二宮金次郎の銅像がありましたね。
 懐かしい写真です。


 私は、自分がどれなのかも解らなかった位ですから、他の方のお名前を知るよしもなく、どうにか滝さんだけは解りました。
                                    
 60年の歳月を経てもなお、当時の記憶が鮮明に蘇る写真の威力に、改めて感服致します。
 モバイル化の激しい現代、デジカメ又は携帯等で安易に撮った画像(呼び方まで違いますね) が60年先、この様に生き生きと存在するのかなあ~と疑問に思ってしまいます。
 この写真は、滝さんが大事に保管されていた物です。

 ご希望の方には、添付ファイルでお送り致しますので、申し込んで下さい。
 ちなみに、私は、後列左から二人目です。その左は小松さんかな?
 ノブさんは何処ですか?

2008年3月26日水曜日

春に誘われて

 山形も春らしい日が続きました。この陽気に誘われたわけでもありませんが、23日の日曜日に山形市南栄町の自宅から上山市旭町の実家まで歩いてみました。
 コースは旧羽州街道。自宅を出ると間もなく吉原。ここから二ツ橋、坂巻、片谷地、蔵王駅前の松原、黒沢と続く。5年前、三重県の伊勢神宮まで歩いて行ったとき、よくトレーニングのために歩いていたコースです。
 黒沢温泉口からは踏み切りを渡って右手の山に入ります。かつての黒沢峠。上り口に石鳥居があって、道幅は3~4㍍ぐらい。つづら折りの坂を上りきったところに今は立派な神社があり、片側2車線の道路も整備されています。
 片側2車線の道路は旧上山競馬場前からまっすぐ北へ伸び、山形市の西回りバイパスに通じたものですが、今回はこの道路の歩道を歩いて弁天、旭町へと向かいました。
 距離は9㌔前後。午前10時10分に自宅を出て、11時50分には上山の実家に着いていました。蔵王連峰がきれいで、何度も足を止めて眺めて来ました。
 黒沢峠から大石、四ツ谷を下り、新丁坂下に出る道が旧羽州街道。参勤交代の大名も通ったということで、昔をしのびながら何度も往復したものです。
 今は「みはらしの丘」の整備が進み、旧街道の面影は薄くなりましたが、高台から眺める山形市内や蔵王連峰が素晴らしく、これからも足を運ぶつもりです。

小学生のころ

 ジローさんのご子息の小学校卒業にまつわる写真を見て小学校当時のことを思い出しました。
 
 小学1.2年は、3組で枝松妙子先生が担任でした。私のうちは、新丁の共同浴場の隣の隣で
その隣というのは、そばや「高砂や」(佐藤博君)で、更にずっと上ると切り通しになり(その切通しの左上には
お不動様がある)上りきって下ると四辻になる。右に行くと「軽井沢」、まっすぐ行くと「湯町」、左に行くと
「小学校」でした。湯町に行く中ごろ左手に黒塀の邸宅があり、衆議院議員「小野孝」宅、その令嬢が
同級生の美樹子さんでした。
 
 やはり同級生の佐藤博君が「きんな、美樹ちゃんのうちさ、遊びいってきた。」と言うのを目を丸くして
聞きました。私には、女の子と遊ぶと言う世界は存在しなかったのです。その後何回か聞かされましたが
同じでした。
 
 中学になって、山口康夫君と机を並べ、遊びに来るよう誘われ、行くのは夜になってからが多かったの
ですが、行くと店の奥の居間に通され、そこにはたいてい二人の美しく利発なおねえさん(特に若い方の
ねえさんは山形西高で生徒会長をしたと言う)がいていろいろ話をしていて、時々声を掛けられても
ずぼらな返事しか出来ず、ずっと下を向いたままで次第に首筋や肩がこってどうにも我慢できなくなる思いでした。
もう来ないと思いながら彼に誘われるとやむを得ず行っては同じ苦痛を抱いておりました
 
 今は、共同浴場と高砂屋だった家は位置が交換になり、私の家もなく、小野宅も今はなくキリスト教会が建って
いるようです。
 
鈴木 展夫
 E-mail : nre51313@nifty.com

2008年3月24日月曜日

春ですね。

 関東地方は、今日は快晴で暖かい一日でした。庭の沈丁花の香りを嗅ぐと、春だなあ~と実感します。

 先週は娘の卒業式があり、夫とともに参列しました。
 その帰り道一杯飲み屋で乾杯の盃を上げ、夫に「お疲れ様」と少々照れながら感謝しました。なにしろ、25年(息子も含む)間にわたり、夫は脛かじりに会い、お陰でその脛もメタボの身体を支えるのがやっとの様です。


 写真下は息子の小学校卒業記念樹(梅)、で上の写真は娘の小学校卒業記念樹(紅梅)です。
 毎年、これらの木から10kg弱の梅を收穫します。梅干、梅酒を作ります。(夫の趣味)


 この梅の木の様に、子供達は大病も無くすくすく育ちました。なにしろ息子は健一、娘は康子で、両方合わせて、「健康第一」となります。単純明解な名付けに時々子供達からクレームがつきますが、親の思いですよね。

 四月になれば娘も独立し、私と夫とジローの生活になります。空の巣症候群にならない様に頑張りたいと思います。

2008年3月21日金曜日

梯剛之さんをご存知ですか?

 梯剛之さんは、1977年音楽家の両親のもとに生まれました。
 幼少の頃小児ガンにかかり1ヶ月で失明します。
 しかし、音楽一家に生を受けたため、ピアノをオモチャ代わりに遊んでいるうち、ピアノのすばらしさに目覚め、4才半より先生に師事します。
 1990年、八王子の小学校を卒業と同時に渡欧しウィーン国立音楽大学準備科に入学、同年再び眼に悪性腫瘍を患い帰国し手術、翌年ウイーンでの勉強を再開します。

 94年チェコの盲人弱視者国際音楽コンクール、ドイツのエトリンゲン青少年国際ピアノコンクール(Bカテゴリー)で参加者中最年少で優勝、95年アメリカのストラヴィンスキー青少年国際コンクール第2位。 97年村松賞受賞。 98年ロン・ティボー国際コンクール(パリ)第2位およびSACEM賞(リサイタル賞)、シュピオンボノー財団賞を受賞。  99年都民文化栄誉章、出光音楽賞、点字毎日文化賞をそれぞれ受賞。 00年ショパン国際コンクール(ワルシャワ)ワルシャワ市長賞受賞 など、数々の賞を獲得した世界で注目を浴びる天才ピアニストです。(以上は、公式サイトより引用)

 現在はウィーンに母上と共に在住で、日本での演奏のために帰国された時は、私が住んでいる街の別荘に時々滞留されます。
 自然の多い我が街を散歩されているお姿に何度か遭遇しました。

 ある日、犬(ジローの前の犬)の散歩の時、母上に支えられて散歩されている梯さんにお会いしたので、「この間の演奏会はすばらしかったですね。」とお声をかけたら、全盲の梯さんに、母上共々、深々と頭を下げられ、「有難うございます」とお礼のお声をかけていただきました。世界的ピアニストであるにも係らず、その謙虚な振舞いに大変感動致しました。

 その時、母上は、私の事を「茶色の足の長いすらっとした犬をお連れの方ですよ。」と息子さんである梯さんに説明されていました。「ああ・・・そうですか」と。

 そう言えば、散歩の時はいつも母上が梯さんの目になり、「新芽が芽吹いていますよ。」とか「この家のお花は、とてもきれいですよ」など等、和やかに談笑されながら散歩されています。

 時々、演奏会が近づくと、猛レッスンの模様を犬の散歩の時など耳にする事が出来ます。
 そんな時は、犬の散歩を忘れて、丁度梯さんのお宅の前の公園で、世界の一流のピアニストの美しい音色を聞いてしまいます。何か得をした様な気になります。

 最近は、余りその美しいピアノの音を聞いておりませんが、日本全国を演奏旅行されている事をサイトで知りました。

 私の周りの方々は、梯さんを特別視する事をせず、暖かい目で静かに見守る風を心掛けています。
 しかし、我が街の誇りであると同時に、いつも勇気を下さる存在である事には変わりがありません。 

2008年3月13日木曜日

名残樹氷の蔵王を滑る


 全国的に春の陽気となった12日(水)、山形県内も晴れ間が広がった。斎藤茂吉翁が「みちのくをふたわけざまに聳えたまう」と詠んだ我らが蔵王も雲ひとつない。シーズン終盤とはいえ、絶好のスキー日和でもある。家内と二人でザンゲ・カラ沢コースから大平コースを下ったほか、高鳥コースや黒姫・大森コースなどを滑ってきた。
 蔵王スキー場まで30分足らず。家を出たのは10時20分を過ぎていたが、大森駐車場に車を置き、11時前にはリフトに乗ることができた。スキーを履くのは2シーズンぶり。緩斜面で足ならしをした後、まずはお地蔵様にあいさつしようと、ロープウエイの山頂線に乗った。ゴンドラの眼下に樹氷地帯が広がる。ただ、気温の上昇に伴い雪氷の衣を脱ぎ出した樹氷はすっかりスマートになっていた。「名残雪」ならぬ「名残樹氷」といったところ。
 
 お地蔵様はいつものように赤い頭巾姿。肩から上をのぞかせていた。折角なので近くにいた人から、お地蔵様を前にシャッターを押してもらった。
 シーズン終盤のウィークデーだけにスキーヤーやボーダーの姿はまばら。ゲレンデも厳寒期のようなパウダースノーとはいかない。しかし積雪はたっぷり。しかもコース整備が行き届いているため、どこも滑りやすい。
 かつては恐怖感で滑ることができなかったザンゲ・カラ沢コースも何とか自分のペースで下ることができる。好きなようにコースを選び、好きなようにシュプールを描くことがでた。
 このところ冬季間は室内シニアテニスに興じているが、スキーの醍醐味、爽快感にはかなわない。来シーズンはスキーの回数を増やそうと改めて思った。

2008年3月11日火曜日

インドの写真送ります

佐藤 美樹子さん: 小笠原 英雄さんに送った所、このアドレスに送るように返事有りましたので、送付します。
 
40年前、青年海外協力隊に参加してインドで数年過ごした仲間と、「任地を訪ねる旅」センチメンタル・ジャーニーをして来ました。 写真の「タージマハール」はかっては観光客は外国人ばかりでしたが、今はインド人で溢れてました。豊かになって来ている事を実感しました。私の任地「ライプール駅前」でのスナップは、私の宿舎に良く遊びに来た当事の大学生です。彼らも今は、58歳と60歳になってました。 リキシャ(三輪車タクシー)で溢れていた駅前も車が多くなってました。 インドの発展振りを肌で感じ、この目で確めた有意義な旅でした。 参考まで、送ります。3年E組・伊東 宏一
 
 
 
 

2008年3月10日月曜日

SOボランティア

 去る7日から3日間、蔵王スキー場や山形市内の室内スケート場などで「スペシャル・オリンピックス(SO)日本冬季ナショナルゲーム」というスポーツ大会が開かれました。
 ダウン症候群とか自閉症を含め知的発達が十分でなかった人たちのスポーツ大会で、全国各地から約900人の選手団が参加し、アルペンスキーやノルディックスキー、スノーボード、スピードスケート、フィギュアスケートなどの競技が行われました。
 その最終日の9日(日)、スケート会場のボランティアで駐車場係を務め、ささやかながら大会の手伝いをさせていただきました。
 駐車場係のあい間はスタンドからの応援に回り、選手一人一人に手が痛くなるほど拍手をおくってきました。体が思うように動かなくとも、リンクの上で懸命に頑張る選手たちを見ていると胸が熱くなり、拍手せずにはいられませんでした。
 ボランティアは高校の同期会が団体で大会事務局に登録したものです。愛知県でトヨタ輸送の社長をしている同期生のO君(村山市出身)が、企業ぐるみでスペシャル・オリンピックスを支援していることから、地元の山形周辺に住む同期生も全面的に協力しようと、30人がボランティアに申し込み、8日はノブさんも参加しました。O君の計らいで細川佳代子・大会名誉会長(元総理大臣夫人)を囲み、間近で話をさせていただくなど、メンタル的には選手や大会関係者からこちらがボランティアを受けているような一面もありました。

2008年3月7日金曜日

森本家の雛飾り










 やよい3月5日は啓蟄、本当に日々の過ぎるのははやいものですね~。
ogaさんの投稿を見せていただきまして山形雛街道を辿ってみたくなります。
 最上川を山形から酒田に船で運ばれた紅花や米が北前船で上方へと
運ばれてその帰り船に巨大な富と上方の文化、時代雛が運ばれて来ました。
 上山城にも享保雛や古今雛が展示されています。
みなさ~ん!!上山にいらした時武家屋敷の通りを歩いてみてください。
決して完璧なものではないと思いますけれど1628年以降建てられた中級
武士の屋敷が4軒並んでいて今でも子孫の方々が住んでいる所もあります。
森本家はその1軒です。大正6年に東京日本橋区十軒店から購入された
御殿飾り雛をはじめて一般公開してましたので写真を撮らせていただきまし
た。清水屋さん所蔵の大きい人形も合わせて見て下さい。




2008年3月5日水曜日

雛飾り

 今、山形県内では各地の旧家や歴史資料館で雛人形の公開展示が盛んに行われています。上山でも上山城や武家屋敷で公開されているようです。ひな祭りの翌日、高校時代の同期生が所蔵する雛人形を見せてもらいました。
 山形市北西部の旧家。本人は11代目に当たるそうです。一般公開はしていませんが、「山形の歴史と文化」という本で取り上げられたお雛様で、古今雛の御殿飾りでした。
 最上段に京都御所の紫宸殿を模した御殿を配し、その中に内裏雛が飾ってありました。御殿飾りを見るのは初めてなので、ついつい顔を近づけてのぞき込んでしまいました。
 御殿の造りが精巧で、組み立てるのに一日掛かりということでした。片折戸の内で琴をひく女人の添え雛も初めて見るものでした。
 博識な同期生の一人によると「黒田節や平家物語に出てくる想夫恋の場面だろう」ということでした。
帰宅してから平家物語をめくってみると、巻第6の小督というところに「峰の嵐か松風か、訪ぬる人の琴の音か、爪音頻き想夫恋」という黒田節の歌詞にあるような話が出ていました。
 ただ聞いただけではすぐ忘れてしまうので、改めて調べたり、確かめるのを楽しみの一つにしています。
 今回は高校の同期生5人と共に訪れたものです。この同期会では昨年から年3回ほど同期会だよりを発行しています。その中に「おじゃまします」というタイトルで会員の自宅や実家を訪ね、趣味とかライフスタイル、所蔵品などを紹介するコーナーがあります。次の同期会だよりでこの雛人形を紹介することになっております。

2008年3月2日日曜日

ラス・ベガスに行って来ました。

 21日~26日と短い日程でしたが、ラス・ベガスに行って来ました。
「Las・Vegas」とは、スペイン語で「牧草地」という意味だそうですが、砂漠のど真ん中に出来た人工的な街で、フーバーダム(1935年完成)と共に栄えた街で、カジノ、エンターテーメントの街としても有名です。

 到着後の街の第一印象は、ホテルから見る夜景がすばらしいなあと思いました。
 がいったん夜の街に出てみると、人人・・・の渦とそれらを見下ろす様に建っている建築物とイルミネーション。

 エッフェル塔あり、ピラミットあり、スフィンクスあり、自由の女神あり、ヨーロッパの建築様式を真似たホテルのラッシュと、それらと同居する様にカジノあり・・・何でもありの色彩の濃い街にまず辟易しました。

 また、街行く人々の服装は、春夏秋冬混在で、これでもか、これでもかと自己主張している様と自由な振舞い、本当に日本人たる我々の小市民感覚からかけ離れた様相にただ、びっくり・・・。

 それでも、二回程のショー観劇をしました時には、そのスケールの大きさにびっくりしました。
 アメリカ人の持つ力強さの様なものに圧倒されましたし、また、そのフレンドリーな人柄に接することが出来た事は、大変な收穫だったと思います。
 まさしく、エンターティメントとカジノの世界ですね。 

 旅の三日目に行ったグランドキャニオンの絶景には感激しました。
 この地では、地球の歴史の約1/3に当たる17~20億年の間に堆積した地層を見る事ができる事で有名です。12層から成る地層の1つ1つを辿りながら、悠久の歴史に思いを馳せたかったのですが、時間がありませんでした。再度訪れたい場所です。

 たった五日の旅の間に、たった40年の歴史しかない人工的なラス・ベガス、20億年の年数をかけて堆積されたグランドキャニオンの両方を体験する事が出来ました。 
 ある意味では、内容の濃い旅行でした。

 画像は、グランドキャニオンを背にした私です。主人が撮ったものです。