2010年5月26日水曜日

蔵出し・時速5㌔の伊勢参詣⑪

【9日目】古河市~幸手市~春日部市~越谷市~草加市~東京・上野

《日本の道百選・草加宿の松並木》
山形を出発して10日目。今日はいよいよ東京に入る。朝6時に春日部市のスパランドを出発し、約50分で旧国道4号に出た。この道を南下すれば越谷、草加を抜けて上野駅前に出るはずだ。

8時15分に越谷駅前を通過し、11時には草加駅前に着いた。草加市内の日光街道は松並木が保存され、約1・5㌔の遊歩道も整備されていた。かつての宿場町をイメージし、市民の憩いの場にもなっているらしい。「日本の道百選」や「利根川百景」に選ばれているという。

《手焼きせんべい》
有名な「草加せんべい」は江戸時代から日光街道の名物だった。市内では昔ながらの手焼き姿をみることができる。その1つ「藤田せんべい店」で手際よく焼き上げる旦那さんの作業姿をしばらく見学させてもらった。香ばしさに誘われ、どうしても食べたくなった。10枚買って、すぐ口にした。「おいしい」。聞けば息子さんが米沢に赴任したことがあるそうで、山形を話題にけっこう話をしてくれた。
《午前11時30分に東京都入り》
 草加せんべいをほおばりながら歩き、30分もすると東京都足立区の標識があった。街の中でそれほど大きな標識でもなかった。伊勢までの行程を考えれば通過点の1つにしかすぎない。しかし「ここから東京」「とうとう東京まで来た」と思うと、やはり胸にくるものがある。時計を見ると11時30分。カメラを取り出して、標識を写真に撮った。
《東京まで10日間の目標を達成》
 都内に入ってから街道沿いにあった公園でシルバー世代の人たちが野球の練習をしていた。休憩を兼ねてしばらく見物することにした。選手の動きや技術は我々と同じように見え、山形で練習に励むチームメイトを思い出させるひと時でもあった。
 
その公園を出発したのは12時50分。40分ほど歩くと荒川に架かる千住新橋を渡った。さらに隅田川を渡り、上野駅前に着いたのは15時頃だった。
 昔、仙台藩主の参勤交代は10日前後で往き来していたと-聞いたことがある。1日平均が約40㌔。かなりハードなペースだ。できれば「これと同じペースで」というのが1つの目安だった。途中で足を痛めたものの、一応このペースはクリアできた。後の行程につながる自信を持つこともできた。
(続く)

ストックホルムから・・・うれしいお便り

ストックホルムより、カウフ五人組とアシアが、心からのご挨拶をお送りいたしま
す。

長い週末を最大に活用しています。沢山笑って、美味しいものを食べて、そして、良
いお天気をエンジョイしています。

昨日は、ブランチ(スノルガルボルド)をいただきましたが、最高でした!

今日は、シェーレン島に行ってきました。

心をこめて・・・

マルクス、カトリーヌ、アンディ、アシア(アンディの婚約者)、パスカル、ニコル
(と署名してあります。)

ご家族は、家族の一員の誕生日を祝う為、週末を利用して、旅行にでかけるようで
す。

ニコルさんは大学のホテル学科にいます。大学のレストラン訪問記に興味のある方
は、こちらから・・・どうぞ。

http://lemannohoshi.at.webry.info/200905/article_3.html

雪子

2010年5月25日火曜日

蔵出し・時速5㌔の伊勢参詣⑩

【9日目】古河市~幸手市~春日部市

《利根川を渡り首都圏へ》
今日は利根川を渡る。関東平野を貫流し、坂東太郎と呼ばれる大川だ。行程前半で1つの目標としていた所でもある。

ホテルを出て1時間半ぐらいで利根川の河岸に着いた。対岸は埼玉県栗橋町になる。

滔々と流れる川面に目をやりながら、国道4号の橋を渡った。幅広い歩道は通る人が少なく、時折、自転車とすれ違う程度。しかし、車道は上下線ともおびただしい数の自動車が列をなして通り過ぎていった。

《日光街道最大の難所》
かつては「房川渡し」という渡し場があったらしい。日光街道最大の難所でもあった。徳川家康が上杉征伐に出陣したときは「舟橋」が架けられたらしい。舟を鎖でつないで渡れるようにしたもので、その後、将軍が日光に詣でるときにも舟橋が架けられたという。

栗橋は日光街道の要所。関所も置かれた。この関所は東海道の箱根、中仙道の碓井とともに幕府の重要な関所になっていた。舟運も盛んだったらしい。
 後日、知ったことだが、上山・栗川稲荷の発祥と深い関わりのある地でもあるらしい。

《スパランドに宿泊》
栗橋からは国道4号沿いを中心に南下した。途中、一里塚とか神社仏閣で休憩を取りながら歩き、午前10時過ぎに幸手市内のファミリーレストランで遅い朝食をとった。なぜか甘いものが欲しくなり、フルーツパフェも食べた。

幸手市から杉戸町を通り、春日部市内に入ったのは午後2時ころ。この日はさまざまな温泉やお風呂、サウナなどがあって、食事や宿泊もできる「スパランド」に泊まる。インターネットで入手した略図を頼りにスパランドへ着いたのは3時半過ぎ。春日部市内を1時間半ほど歩いた。
スパランドは小山市の健康ランドよりも規模が一回り大きい。入館料は2,300円、深夜割増が1,000円。正面玄関から入館して、最初に下足コーナーで外履きの履物を箱に入れて鍵を掛ける。番号の付いたその鍵をフロントに預けた上で入館料を払うとロッカーの番号が付いた鍵を渡してくれる。さらに更衣室というか脱衣室を兼ねたようなロッカールームの入り口で館内着用のウェアーを受け取れば翌日まで自由に行動できる。

《レストルームでぐっすり、ただし両隣に見知らぬ男性》
ロッカールームで渡された番号のロッカーを探し、背負ってきたリックなどの荷物を入れた。縦長のロッカーはどこも同じスタイルだが、リックも十分に入るスペースだった。
ロッカーの鍵は手首や足首に付けて常時、持ち歩けるようになっている。食堂や喫茶ルームで飲食物を注文するとき、鍵の番号を提示すれば代金は退館するときにフロントでまとめて精算する仕組み。館内で現金を持って歩く必要はなかった。
広い浴場で入浴した後、食事をしたりレストルームでテレビを見ながら体を休め、寛いだ時間を過ごすことができた。夜9時ころ夜食にラーメンとあんみつを食べて、10時ころ本格的な“床”についた。とはいってもレストルームでの仮眠だが、日中30㌔以上も歩いたせいか、寝つきがよく、ぐっすり眠ることができた。
ただ、寝るときはあまり込んでいないスペースを見つけて寝たはずなのに、朝、目が覚めたとき、30㌢も離れていない両隣にまったく知らない男性が寝ていたのには一瞬びっくりしてしまった。
(続く)

2010年5月24日月曜日

蔵出し・時速5㌔の伊勢参詣⑨

【8日目】小山市~古河市
《江戸と日光の中間、縁結びの榎》
足首からつま先にかけての腫れが前日よりもひどくなっているようだ。肉離れなら痛みは10日ぐらいとれないだろう。9時少し前から歩き始めた。無理をせずゆっくり歩くだけ。栗宮、間々田、友沼、野木といったかつての宿場町が過ぎて行く。
間々田には「逢の榎(あいのえのき)」という石碑があった。間々田は江戸と日光の中間に当たる。その目印に榎が植えられた。当初は「間(あい)の榎」だったが、いつの頃からか「逢の榎」となり、縁結びの榎になったという。

《山形から館林へ向かう女性の道中絵巻》
小山市から野木町に入ったところで「日光道中 野木宿周辺の松並木」という案内板があった。日光街道といえば杉並木が有名だが、この辺りは松並木になっていたらしい。
「松風を琴の調べに聞きなして心なぐさむ旅の道野辺」―。今から160年ほど前、山形藩主が館林へ国替えになったとき、山田喜太夫という家臣の妻・音羽(とわ)が道中記のなかに残した歌で、間々田から友沼へ向かうあたりで詠んだらしい。
暑さと疲れた体に、松並木を渡ってくる風が、涼しく感じたのかもしれない。道中記には「松並みの間に小石が敷かれ足が痛い」といったことも記され、杉並木ではなく、松並木であった当時の様子がうかがえる-などと紹介されていた。

《藩主の国替えで家臣の家族も引越し》
音羽夫人はなかなかの才媛だったらしい。歌も文も絵もこなし、道中記は「御国替絵巻」として残されている。藩主の国替えに伴い、山形から館林に向かう家臣や家族に思いをはせながら古河を目指した。
今は歩道があって歩きやすい。足を痛めているとはいえ、ぞうり履きで歩きにくかった昔の街道に比べれば楽なものだろう。午後2時過ぎに古河駅前に着いた。小山市から歩いた距離は10数㌔。いつもの半分程度だが、この日は古河に泊まる。駅前の食堂で遅い昼食をとった後、電話で近くのビジネスホテルを予約した。3時過ぎにチェックインし、部屋でゆっくり休んだ。

金縛り(?)

今年も元気なつもり(自分がそう思っているだけ)で
毎日のようにテニスや野球のボールを追いかけています。

しかし、今までとは何かが違ってきました。
体が思うように動いてくれず、
こんなはずではないのに…
といった日が続いているのです。

オーバーに言えば金縛りにあったような感じ。
夢の中で、全力疾走しながら
前に進まないことがよくありますが、
現実となるとやはり「歳相応」。
悔しいけど認めざるを得ないようです。

「5歳刻みで体力が落ちる」とは
諸先輩からよく聞かされた言葉。
確かに50歳とか60歳といった節目のときに、
何かしら感じるものがあったような気がします。

ところで「今シーズンの機能低下は?」となると、
65歳が3年遅れでやってきたのか、
古稀が2年前倒しでやってきたものなのか。

できれば後者は考えたくないところですが、
機能を維持するためのトレーニング(というよりリハビリ
と言った方がいいのかもしれません)を怠っているのも事実。
「体は正直なもの」といったところなのでしょうか。

いつかブログで「体は年齢と仲良く、
気持ちはマイナス3~5歳で」というお言葉がありました。

「いいこと言うなあ」と感心しながら、
しみじみとかみしめている今日このごろです。

大聖堂とシーダー・・・ご近所を一回り

家を出て左に曲がると、四つ角があり、渡ると、シャンブランド。左側に、この家、
シャンブランド通り一番地、があります。この写真は、通りの反対側、墓地から撮り
ました。

シーダー、見事でしょう!下から見上げると、首が折れそうで、後ろにひっくり返り
そうです。シーダーは、杉と訳されているのですが、日本の杉とは全然形がちがうの
で、ここでは、シーダーにします。

以前、ここは山吹の生垣に囲まれて、屋根が見えないような味のある借家で、イギリ
ス人の母娘が住んでいました。持ち主は、別なところに家を構えて住んでいました
が、定年になり、暖かいレマン湖畔にと、建て直したものです。

お隣さんは、この新しい建物を「大聖堂」と呼びました。今、この近辺のお屋敷は、
大聖堂に変わってしまい、お隣さんは、アルツハイマーで施設に入っています。

色は違いますが、私たちも大聖堂に住んでいます。

2010年5月21日金曜日

アルケミスト・・・読みました�

「アルケミスト」のイラストを、chonさんがグループ展に出される・・・と聞いて、
こちらの本屋で探しましたが、見つかりませんでした。

私は、気前が良いというか、おっちょこちょいと言うか、読んだ本は、どんどん誰か
にもらってもらうので、「アルケミスト」は読んではいるのですが、手元にはなかっ
たのです。

そしたら、chonさんが送ってくださいました。

何度、読んでも、深くて・・・。

まず、本当の宝を探し始めると、宇宙が動き出します。凄いでしょう!

そして・・・あとは、読んでからのお楽しみ。

chonさんのブログサイトは、こちら・・・。

http://blog.goo.ne.jp/chonlog

2010年5月19日水曜日

フロリダから・・・うれしいお便り�

ご主人が夫と一緒に働いていました。ハンブルグにお住まいのドイツ人ご夫婦です
が、今回は、フロリダからのお便りでした。

お嬢さんが離婚されて、悲しまれていましたが、フロリダへのご旅行で、本当によ
かったです。

雪子

2010年5月18日火曜日

東洋マロニエ

自宅から車で10分ほどの山形市郊外に
西公園という公園があります。

5年ほど前、山形市西部の須川沿いに
整備された公園で、広大な芝生広場のほか、
テニスコートや足湯、芋煮広場などがあります。

この西公園の車道や駐車場の周辺に多数の東洋マロニエ
(という呼び名があるかどうかは解りません。実はトチノキ)が植えられ、
今、白い花を咲かせています。

まだ若い木で、雪子さんが紹介してくださった
マロニエの何分の一もありませんが、
将来は立派な並木道や木陰を提供してくれるのかもしれません。

マロニエはセイヨウトチノキと呼ばれるそうですが、
トチノキというとトチ餅とかトチ蜜(蜂蜜)を連想し、
どうしても山間部というイメージが先行してしまいます。

トチノキにとっては迷惑な話かもしれませんが、
マロニエの方が何となくロマンティックに感じ、
セイヨウトチノキをもじって東洋マロニエと書いてみました。

この公園には毎週月曜日と火曜日の午前中、
シニアテニスの練習で通っています。

足湯を楽しんだり、芋煮会も開くことができ、
人気スポットの一つになっています。

2010年5月17日月曜日

郵便ポスト・・・ご近所を一回り�

日本では、ポストは赤でしたが、スイスでは、郵便に関するのは、全て黄色です。こ
の箱を通して、親しい人に辿り着くのですから、驚くばかりですね。

合理化・・・と言うことで、ポストも、あちこちで、取り払われてしまいました。こ
れは、バス4番のシャンブランド停留所の側にあります。

雪子

2010年5月14日金曜日

マロニエ・・・ご近所を一回り�

私の住んでいる通りを左に行き、交差点を越えると、シャンブランドに出ます。通り
と地区の名前で、お屋敷通りです。今では、多くのお屋敷が取り壊されて、近代的な
建物が建てられました。
しばらく行くと、小さな公園があります。ここには、昔、馬が放し飼いになっていま
した。今は、バス通り側に事務所用の建物が建てられ、シャンブランドに面して住居
用の建物、そして、その前が公園になっています。
見事なマロニエでしょう!赤い花をつける木もあります。
蔵王に連れて行ってもらった時、「あれが、橡の木」と指差さされた方をみたら、マ
ロニエの木でした。
雪子

2010年5月12日水曜日

市議会に立候補する友人、そして、ミスタースイス

友人のメイヒトリめぐみさんが、ローザンヌ市議会に立候補する事になりました。

民主キリスト教党からで、ドリス・ロイトハルト大統領と同じ党です。めぐみさん
は、外国人の為に、ボランティア活動をしてきました。「お願いされると、断れなく
て・・・。」私は、ローザンヌに住んでいないので、選挙できませんが、日本人の誇
りです。

そして、新しいミスタースイスが選ばれました。

ヤン・ビュールマンさん、22歳、オペラ歌手を目指す声楽科の学生です。立派な体
はキックボクシングとクンフーで鍛えたそうです。希望を一つ叶え、次の希望に向っ
ている姿を見るのは、うれしいですね。

今回の候補者の中には、アラブ名、スラブ名、アフリカ名、オーストリア名もあり、
親の代、又は、子供の時にスイスに移住してきたのか・・・と思わされました。職業
も、学生、マーケッティング顧問、フィットネス教師、バスの運転手と様々でした。

雪子

2010年5月11日火曜日

切り通しとお不動様と守り本尊

「切り通し」も懐かしい所です。
お不動様のすぐ北側に切り開かれ、
新丁から御井戸丁、軽井沢、湯町方面へ抜ける坂道でした。

小学校へ通う道でもあり、冬になると
ソリで滑り降りたゲレンデ(?)でもありました。
女の人は竹下駄というか滑り下駄で
遊んだところではないでしょうか。

切り通しのすぐ上に立つのはお不動様で、
確かに杉の大木や桜の木がありました。

そのお不動様から2~300㍍ほど
南にあったのが愛宕様で、
お不動様と愛宕様の間には
お稲荷さんがあったような気がします。

記憶は定かでありませんが、
sizuさんの実家の筋向いから
お不動様の参道がのび、
万里ちゃんの実家の北側が
愛宕様の参道だったと思います。

お不動様の例祭がいつだったのか、
お堂の中に不動明王が祭られていたのかどうかは覚えていませんが、
お不動様に上る階段の中腹にはお地蔵様があり、
切り通しが開かれた高台一帯は
地域の信仰の場であったのかもしれません。

十二支よる守り本尊については、よく分かりません。
子年生まれは千手観音、卯年生まれは文殊菩薩…
といったようなことですよね。

そういえば先日、御衣黄桜の開花を教えてくださった方に
「虚空蔵山に登った」と話したところ、
その方は「私は毎年、登っています。守り本尊なので…」ということでした。

そのときは虚空蔵様が何年生まれの
守り本尊なのか聞きもしませんでしたが、
調べてみると虚空蔵様を守り本尊とするのは
丑年生まれと寅年生まれのようです。

そして、雪子さんがおっしゃる巳年生まれの本尊様は普賢菩薩。
それがお不動様にあったのか、愛宕様にあったのかは分かりません。

ちなみに午年生まれなの小生は勢至菩薩。
その勢至菩薩が近隣では何処に祭られているのかは分かりません。
お不動様の不動明王は酉年生まれ方々を守るようです。

2010年5月10日月曜日

トロントからの訪問・・・うれしい出会いと再開�

ジュネーブにいらした・・・との事で、我が家まで足をのばしてくださったのです。
IT関係の会社を五年前に立ち上げられて、その当時は、二、三年で仕事が無くなるの
では・・・と言われたそうですが、今でも、こうやって楽しくやっています、との事
でした。

夫が仕事で、フィリピンに行った時に知り合い、そして、お仕事でピュイに二年ほど
住んでいらっしゃいました。その後、カナダに移民として行かれ、ご苦労をなさいま
したが、子供は二人とも大学を卒業して、働いています。

お土産に、ナイヤガラの滝の近くのアイスワイン、これは、一月ごろ、ブドウの実が
しなびて、糖率が高くなってから摘むもので、甘いそうです。アルコール度は1
2%、97年のものです。

そして、人型のものは、イヌシュクと言って、人の魂のイメージ、実物は、岩で出来
ていて、道端に立てられ、道行く人への道標だったということです。それが、今で
は、お互いが支えあっていることを、私たちに思い起こさせるシンボルになっている
そうです。

そして、ご主人様がいらっしゃる間、トロントの奥様からお電話があって、直接お話
ができました。

あまり、うれしくて、お客様の写真を撮るのを、忘れてしまいました!

遠いところ、ありがとうございました。

2010年5月9日日曜日

満開の御衣黄桜

9日の日曜日は上山市内で花が緑色の「御衣黄桜」を観て来ました。
場所は浄光寺(軽井沢)向かいの旧国道沿いと新丁のお不動様境内。
いずれも青空の中に満開の御衣黄桜が浮き立っていました。
先月中旬、6年1組の観桜会を開くにあたり、上山を訪れた際、
ある方から「花が緑色の御衣黄桜は上山にもありますよ」と教えていただきました。
「咲いたらお知らせしましょうか」とも言ってくださったので、
ご好意に甘え自宅の電話番号を書き残してきました。
そして8日(土曜日)午後、緑の桜が咲きましたよ~という電話をいただきました。
9日は午前中、還暦野球の練習だけ。
午後はまったく予定がなかったため、
ゆっくりと観賞することができました。
特に浄光寺向かいは花の数が多く、見事な姿に圧倒され
何度もシャッターを押してきました。
新丁のお不動様は子供のころ毎日、日が暮れるまで遊んでいたところ。学校よりもはるかに思い出があるところです。
そのお御堂の前に御衣黄桜が咲いていました。浄光寺向かいほど花数は多くありませんでしたが、
1ひら1ひらが春の陽射しを受け、
誇らしげに咲いていました。
このお不動様から見る蔵王連峰は小生にとって原風景の一つ。
その蔵王の山並みがきれいに見え、
御衣黄桜の印象はより強いものになりました。

2010年5月7日金曜日

スイスの記念切手

2010年5月6日から有効の記念切手です。

上段左から

ヨハン・ペーター・ヘーベル生誕250周年
公益法人200周年
ハイジ・・・2010年度ヨーロッパ郵便連帯切手
人々の日常を描いたアルブレヒト・アンカー没年100周年
チューリッヒのクンストハウス100周年
世界サーカス都市ジュネーブ

中段

愛国記念切手・・・1476年のモラ戦役のパノラマ画の抜粋
切手代に付加した割り増し代金が愛国基金に寄付されます。特に、このパノラマ画、
長さ94.4メートル、高さ10.5メートルが展示される建物建設に当てられる予
定です。

下段

右・・・ニーゼン展望台(2337メートル)への登山電車
左・・・ベルニーナ鉄道100周年、下のブログもご参考まで・・・。

http://lemannohoshi.at.webry.info/200808/article_3.html

2010年5月6日木曜日

蔵出し・時速5㌔の伊勢参詣⑧

【7日目】宇都宮市―石橋町―国分寺町―小山市

《日光街道を南下》
 小山市を目指す。距離は30㌔ぐらい。前日までより10㌔ほど短い。
ホテルを出たのは午前8時過ぎ。小雨模様の宇都宮市内は
通勤を急ぐ人たちで慌しさを増していた。

ここからはかつての日光街道を主体に南下する。
日光街道は江戸時代の5街道の1つ。
江戸・日本橋から宇都宮までは奥州街道を兼ね、
東北地方への主要道路にもなっていた。

左足は痛みがある。負担が掛からないように、ゆっくり歩くしかない。
10時過ぎに宿場町だったという雀宮に着いた。
通り掛かりのファミリーレストランで遅めの朝食を取った。
トロロ定食のほか、甘いものが欲しくなり、フルーツパフェも食べてしまった。

《沿道を彩るドウタンツツジ》
 沿道の庭先にドウタンツツジが目立つ。
満開の花に目を奪われながら歩を進める。
正午過ぎに次の宿場町だった石橋町に着いた。
JR石橋駅近くの公園で靴はもちろん靴下も脱いで足を休めた。

左足首から下が全体的に腫れている。
しかし、歩けないわけではない。
歩き続けながら痛みがとれるのを待つしかない。
30分ほど休んで出発した。
次の国分寺町・小金井というところに一里塚跡が残っていた。
一里塚は「街道の両側に一里ごとに土を盛り、里程の目標とした塚。
多くは榎(えのき)や松を植えた」(広辞苑)という。
小金井一里塚は日本橋から22番目。江戸から22里(約86㌔)の地点を示しているらしい。

《健康ランドに宿泊、1泊経費は3,319円》
小山市の宿泊は健康ランドと決めていた。
全行程を通じ宿泊は、経費を軽減するため、割安な民宿かビジネスホテル、サウナ、健康ランドを利用しようと考えていた。

健康ランドは主要な駅から無料の送迎バスが出ているほか、サウナや泡風呂など多彩な浴場を備え、ゆっくり入浴できる。しかも入館料と深夜割増料金を含め2,500円から3,500円前後で宿泊できるのが魅力。
 
JR小山駅から送迎バスで約20分の健康ランドは入館料1,200円、深夜割増1,100円、夕食780円、消費税39円、合わせて3,319円で泊まることができた。
 
ウィークデーなのに若い男女のグループやビジネスマンの出張タイプ、中年女性、子供連れの若い女性を含め数十人もの宿泊客がいたのにびっくりしてしまった。
(続く)

新たな楽しみ

《同窓生の手打ち蕎麦を食べる会》
先の6年1組花見会が終わった後、山形から参加した男性3人は
JRかみのやま温泉駅から夕方5時過ぎの下り列車で帰宅の途に着いた。

車内は下校途中の高校生で賑やかだったが、
山形駅に着いたのは5時半前。家路に着くより、
次回のために反省会が必要ということで、
旬の魚が美味しい店の暖簾をくぐった。

日本酒、焼酎、ビールと3人3様のアルコールを
重ねながら語り合うこと3時間。

最後は花屋隆さんの奥様から車で迎えに来てもらい、
自宅まで送り届けていただいたが、
この間、長岡一雄さんが蕎麦打ちをなさるという話をお聞きした。

同窓生・同級生たちとの蕎麦を食べる会はどうかと
お聞きしたところ「大丈夫」ということでした。
皆さん、長岡一雄さんの蕎麦を食べる会を
企画したいのですが、如何でしょうか?

2010年5月5日水曜日

レクイエム・・・読みました�

小説は、お読みになりますか?

私は、内容にもよりますが、主人公が問題をどう解決するか、に興味があります。 
         

安易な方法を取ってしまう作者もいます。例えば、経済的に苦しい時、誰かが死ん
で、遺産が入ったとか、失恋してすぐに、夢の王子様に見初められる・・・などで
す。

この作者、マルキ明子さんは、最後までキチンと手を抜きません。よくも、こんなに
書けたものだ、と思ってしまいます。

小説の中の人物に代わって、自分だったら、どうしようか・・・ですが、女性として
の行き方や、人間として、自分が命をかけられるか、が問われます。

十代、二十台の血気盛んな時には、出来たようなことも、今では、難しいこともあり
ますね。

「レクイエム」マルキ明子著。新風舎。750円+税。

作者は、スイス在住。ホームページはこちらからどうぞ。

http://www.akiko-mahttp://www.akiko-marquis.ch/home(j).htmrquis.ch/home(j).h
tm

2010年5月4日火曜日

亀ケ岡山

今日(4日)は上山の亀ケ岡山に登ってきました。
といっても、どこの山か知っている人は少ないでしょう。
標高365㍍の虚空蔵山です。
虚空蔵山はかつて亀ケ岡山と呼ばれ、600年ほど前、山頂に築かれた高館城も亀ケ岡城と呼ばれていたそうです。
虚空蔵山が亀ケ岡山と呼ばれていたなんて初めて知りました。
月岡城の前身となる高楯城や「でわのはごろもななかまど」を見るため、一度は登ってみたいと思いながら、これまでそのチャンスを作ってきませんでした。
この日は寿仙寺にある墓を一人で掃除した後、時間があったため足を延ばしたものです。
 
寿仙寺から旧国道13号を南下し、新湯口付近で道を教えてもらいながら登山道を辿りました。旧国道から西側の松山地区は1度も行ったことのない地域でしたが、丁寧に教えてくださった地元の方のおかげで、迷うことなく登り口に着くことができました。
登り口に立てられた高楯城跡の案内図や解説に目を通し、カメラに収めた後、登り始めた。最初は杉葉を、中腹を過ぎてからは乾いた落ち葉を踏みしめながらの登りでした。
登り始めて20分程で山頂に着いた。距離は長くはなかったが、結構急な登りでした。山頂近くの木柵の中に「でわのはごろもななかまど」がありました。
「でわのはごろもななかまど」。心地よい響きのナナカマドです。Sizuさんのお父さんが命名されたとお聞きしました。まだ春先で幹を見ただけ。秋には赤い実をつけるのでしょうか。それに、まだ若い木のようでしたが、2代目なのでしょうか。
山頂の広場には社と梵鐘がありました。何故この地に城を-と思いながら周辺を眺め、鐘もついてきました。山頂からの眺めは霞がかかったようで、写真にも良く写りませんでした。

しかし、長年の思いを実現させた上、心地よい汗を流した満足の1日でもありました。

2010年5月3日月曜日

モルジュのチューリップ祭

レマン湖畔に沿って、ローザンヌから車で、サンスュルピス村、プレヴェランジュ村
を通り抜けると、モルジュに出ます。

ここで、毎年、チューリップ祭があり、今年は、40周年、トルコのイスタンブール
市から50万個の球根を贈られた・・・との立て札がしてありました。チューリップ
の発祥地はトルコではありませんか・・・。

子供たちが先生に連れ添われて、写生に来ていました。

2010年5月2日日曜日

スイスの切り絵

今日は、スイスの切り絵をご紹介いたします。

レマン湖畔のモントルーから、どんどん登り、奥に入りますと、Château-d'Oex(シャトデ)に出ます。この辺が切り絵の中心地ですね。

使うのは、小さなハサミだそうです。

お値段は高く、私など、とうてい手にする事は出来ず、美術館か、お店で眺めさせていただいています。

アンヌ・マリー・ヴァロトン・ソージさんの作品、伝統的なアルプス登り、山小屋、高山、そして、冬に開催される気球大会、スキーのモチーフです。

雪子