2011年12月13日火曜日

先輩の訃報

上山中学校の野球部で1年先輩だった大石富雄さんが去る12月8日、急逝されました。
11日に行われた葬儀では多くの後輩がまだ早かった旅立ちを悼みながらご冥福を祈りました。

大石先輩は高校時代、2度も甲子園大会に出場し、社会人になってからも軟式野球で最も権威のある天皇賜杯全国軟式野球大会で3位になるなど、山形県の野球界に名を残された方です。

中学時代、四ッ谷出身の先輩とは帰宅方向が同じなので、よく一緒に下校させていただきました。
部活動が終わった後、体育館の近くから畑道を抜け、矢来から二日町、十日町を通って新丁、新町方面へ帰っていたものです。

途中、空腹に耐えられず、薄暗くなった畑の大根とかニンジンを失敬し、脇を流れる水で洗って口にしたことが何度かあります。

当時、高校生の野球を見るため大石先輩の先導で上山から自転車で山形の霞城公園を往復したこともありました。

 高校時代は強豪チームの先輩たちには歯がたたず、いつも大敗していた記憶ばかり。その最たる試合は大石先輩が3年生で、小生が2年生のとき。先輩たちのチームと決勝戦で対戦し、勝てば甲子園大会へ出場できるという試合でした。
 しかし、1塁手として出場した小生の大暴投をきっかけに、我がチームは0-8と大敗。大石先輩は2度目の甲子園出場を果たしました。このとき我々と同学年の清志君も甲子園に出場しました。
 
その後、社会人になってから、大石先輩と同じチームでプレーすることができました。先輩の活躍で全国3位になったほか、毎年のように全国大会へ連れて行っていただきました。岐阜県で開かれた国民体育大会では山口県のチームと延長28回まで戦ったこともあります。
 
2人にとって痛恨の思い出は、投手だった大石先輩が小生のエラーで完全試合を逃したことです。野球では相手チームに1人の走者も許さなければ「完全試合」といって、投手としては最高の記録になります。

ある大会で9回2死まで大石先輩が1人の走者も出さず、大記録達成が目前でした。しかも最後になるはずの打球は力のない遊撃ゴロ。難なくアウトにできるはずでした。ところが、遊撃を守っていた小生が1塁へ悪送球。先輩の大記録は一瞬にして消えてしまったのです。後にチームメートの語り草にもなったプレーでした。

書いていると思い出は尽きることがありません。今はただ合掌のみです。

2011年12月11日日曜日

古稀の文化祭

今、パソコンで「東濤会だより」という高校同期会の会報を作成しています。その中にノブさんの写真があります。上山の同級生の皆さんにもご高覧いただきたく紹介します。



会報は2007年夏からスタートして5年目。年3回ずつの発行で、今回は第15号になります。A4版、カラーの8頁。今回の内容は10月上旬、山形市で開催された同期会の大文化祭「美術展と音楽の集い」の特集です。

美術展と音楽の集いは会員たちがこれまで取り組んできたそれぞれの趣味の世界を「古稀の文化祭」と称して発表し合ったものです。

山形国際ホテルの4階展示室を会場とした美術展には絵画、彫刻、書道、写真、陶芸、鋳金、源氏物語絵巻模写など、多彩な分野にわたる約150点が展示されました。

音楽の集いは文翔館議場ホール(旧県議会議場ホール)で開かれました。謡曲・仕舞による祝謡・祝舞で幕を開け、ポピュラーバンドの弾き語り、オカリナ演奏、三味線・尺八の共演、原語で歌うナポリ民謡「オーソレミオ」、フルートとチェロのクラシック演奏と続きました。

ノブさんは音楽の集いの冒頭、祝謡・祝舞で平家物語ゆかりの「八島」を舞ったほか、他の3人とともに「猩々」を連吟。厳粛な幕開けを飾るとともに、舞台と客席を夢幻、幽玄の世界へ誘ってくれました。

写真はノブさんのステージと音楽会の1幕です。

2011年12月5日月曜日

リュトリーのプロテスタント教会


Rue Horloge時計通りの一軒のアーチを入り、教会の標識をたどって行くと、路地を通り、プロテスタント教会の前に出ます。

全体を写せないほど、大きく、外も、中も、立派な教会です。

入り口の菊の花。

そして、教会の入り口から、外を見て撮りました。

雪子