2009年9月15日火曜日

続・3年F組の女性

もう1人、F組女性との会話から。

「〇〇ちゃんを囲む夕食会の場所、決まったがあ?」。
「はい。山形テルサに近いイガッタ(Igatta)という店に決めました」。

「何、エガッタ? ほだな店あんの?」。
「エガッタではなくイガッタです! 煙突のエではなく、石ころのイ!」

「んだがらエスころのエだべ」。

「石畳のイですよ」「エスダダミのエ」。
「糸のイ」「ほいずはエドっだなあ」。
何だかからかわれているような気がする。

そして「イチローのイですよ」と言うと、
急に口調が変わり「そうね、エズローとは言えないわね」。

ということで、最初から分かっていたらしい。
そして追い打ちがきた。

「イガッタでエガッタ!エガッタ! あはははー」。
「・・・」。あっけにとられて返す言葉がない。
3年F組は女性上位と聞いていたが、
まさしくその通りかもしれない。

3年F組の女性との会話から

ある朝、8時少し前に電話が鳴った。

「もしもし…」。寝ぼけ声で受話器を取ると
「あぁogaちゃん? **子です。おはよう。起ぎっだけべー」と、
おっそろしく元気な声が飛び込んできた。

「ogaちゃんは朝5時ごろ起ぎでマイニズ散歩してるてゆったけずねー」。
「???」。朝はけっして早いほうではない。
たまに5時ころ目を覚ますことはあっても、せいぜいパソコンに向かう程度。
散歩に出たことは一度もない。
この時も、まだ布団の中だった。

「誰かと勘違いしているのかな」と思いながら、
生返事をしていると「〇〇ちゃんから電話あったけベー」。
再度「???」。
〇〇ちゃんがよく聞き取れない。
「えっ、誰からですか?」。「〇〇ちゃんョ、〇〇ちゃん」。どうしても聞き取れない。

無言でいると「何、分がんねの。〇・〇・ちゃ・ん!」。
語気が一段と強くなった。「今度、ヤマガダさ来る同級生だべずー」ということで、
何とか〇〇さんの件であることが分かった。

用件は「私ョ、上山さえぐ用事あっから、
その帰り〇〇ちゃんば乗せてくっがっらナ」ということだった。

3年F組の女性は幾つになっても迫力がある。
濁音に語尾の強い話しぶりは“郷土文化”を継承なさっている証でもあろう。
そして温もりがある。でも〇〇ちゃんと呼んでいた名前は今もってわからない。

2009年9月14日月曜日

上山出身のピアニスト。


 大分前になりますが、上山在住の吉野静子さんから月刊ミニマガジン「かみのやま」を送っていただきました。

 早速目を通したところ、最初に目に留まった記事が、上山出身のピアニスト永田美穂さんによる寄稿文、「パリでの音楽修行」についてでした。

 「アレッ、永田歯科医院のお孫さんかしら?」と思いながら、その記事を読みました。

 上山小から上山北中卒業後、東京の桐朋女子高校音楽科を経て桐朋学園大学演奏学科を卒業後、フランス、イタリアに音楽留学をし、現在はパリ在住との事。

 その間、各種コンクールに参加、入賞、そして時々帰郷し、故郷でのコンサートを開かれているとの事でした。
 最近では、8/30に上山で開催されました。
 謂わば日本における若手のホープというところでしょうか。

 また留学中は、練習やコンサートの合間を利用してフランス語のレッスンに通い、それも何とか克服されたとの事。
 活動拠点がヨーロッパの為、演奏旅行の先々で、現地在住の日本人や知遇を得た人々の歓待を受け、日本人として立派な民間外交を果たされているご様子には感銘を受けました。
 我ら同郷の誇りとして、暖かく見守りたいものですね。

 ちなみに、昔まだ小学低学年だったころ、確か虫歯の治療で、母親と共に同医院を訪ねた日の事を思い出しました。
 治療台に上がった途端、「嫌だ~」と大ゴネをし、先生をはじめ周りの方々のやさしい説得にも屈せず治療台を降りた途端、先生の一言「こんな我儘な子供は初めてだ!!」 と怒られた事を思い出しました。
 機会がありましたら、永田美穂さんのコンサートに行きたいものですね。

2009年9月10日木曜日

かみのやま温泉「山城屋旅館」

【歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿は高橋健三君の生家】
 「歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿」として知られるかみのやま温泉の山城屋旅館は静岡県藤枝市在住の東濤会会員・高橋健三君の生家でもある。健三君の祖父・高橋四郎兵衛さんが茂吉翁の実弟で、茂吉翁の著書や遺墨、書簡、写真などが数多く残されている。
歌聖の息遣いが伝わってきそうな山城屋旅館館内には常設展示室が設けられ、その一部がいつでも見ることができるという。母親がアララギ系の歌人でもあった鈴木正朗君と同旅館を訪ね、健三君の兄・豊二さんから山城屋と茂吉翁の思い出などをお聞きした。

《祖父は茂吉翁の実弟》
 山城屋旅館はかみのやま温泉の湯町地区にある。大正ロマンを感じさせる純和風の木造3階建て。美しい日本庭園を備え、2階には茂吉翁の書跡展示室がある。
 四郎兵衛さんは幼名を直吉といい、山城屋の養子になって四郎兵衛を襲名した。生涯、兄の茂吉翁を慕い、誇りにしていた。茂吉翁も帰郷した際はきまって山城屋に滞在し、四郎兵衛さんばかりでなく、甥の重男さん(健三君たちの父)を「シゲオ、シゲオ」といって可愛がり、外出にはよく同行させていた。健三君たちを膝の上に抱いてくれることもあり、家族のようにして寛いでいたという。山城屋滞在中に詠んだ歌も何首かある。

《茂吉翁の頭をなでる・やんちゃだった健三君》
 健三君より2つ年上の豊二さんは「やんちゃな健三が3歳ぐらいのとき、いたずらで茂吉の頭をなでたところ、祖父からひどく怒られたことを覚えている」という。四郎兵衛さんはよその子供でも悪さをするとよく叱った。近所の子供たちにとっては「おっかない爺さん」でもあったらしい。

《蔵王山頂に歌碑を建立》
 「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」。有名な蔵王山頂の歌碑は大正9年、四郎兵衛さんの尽力によって建立された。短歌そのものが歌碑建立のために作られ、歌碑の文字も茂吉翁が揮毫した。台座やさお石は四郎兵衛さんと重男さんが何度か蔵王に登って探し当てた。全国各地に数多く建立された茂吉翁の歌碑の中で、茂吉翁生前の歌碑はこの蔵王山頂の歌碑だけという。この歌碑建立にあたり、茂吉翁が四郎兵衛さんと重男さんに宛てた書簡も山城屋の書跡展示室に展示されている。

《貴重な資料が並ぶ常設展示室》
 貴重な資料が並ぶ書跡展示室四郎兵衛さんは山城屋の3代目。木造3階建ての建物や日本庭園は四郎兵衛さんの代に整備された。客室には「あらたま」とか「赤光」といった茂吉翁の歌集名が付けられ、どの客室からも日本庭園と蔵王の山並みが見えるようになっている。茂吉翁や蔵王に寄せる四郎兵衛さんの想いが込められているという。

《蔵王は特別な存在・子供の頃からよく登る》
 「蔵王には子供のころからよく連れていかれた。暁登山は夜8時ころ上山を出発し、夜通し歩いて山頂まで登った。歌碑のこともあり、家族にとって蔵王は特別の存在でもあったようだ」という豊二さん。この7月15日は健三君と二人で熊野岳に登り、歌碑を観てきたという。今も森林インストラクターとして活動を続ける健三君は8月24日から木曽駒ケ岳、宝剣岳、笠ケ岳を歩いてきたばかり。その原点は蔵王にあったのだろうか。そういえば健三君は子供のころからスキーも上手だった。小学校の校内スキー大会で、健三君が山頂からさっそうと滑ってくる姿をただ驚きの目で見ていたことを思い出す。
 山城屋の客室はいずれも8畳の2間続きか3間続き。ゆっくり寛ぎながら日本庭園や蔵王連峰を眺め、温泉に浸る。そして偉大な歌人・斎藤茂吉翁の足跡に触れることができる。上山城や武家屋敷までは歩いて3分から5分。首都圏をはじめ県外客にも親しまれ、リピーターが多いという。いで湯のまちの老舗旅館は文化人ぞろいの東濤会員にもお誂え向きの宿かもしれない。(小笠原英雄記)

2009年9月9日水曜日

飛鳥と平城山

皆さんお変わりありませんか。今夏、奈良県飛鳥地方の高松塚古墳や甘樫丘、飛鳥寺、万葉文化館などを訪れ、古代国家の歴史や万葉人の歌心を育んだ地域の一端を垣間見てきました。
 今年3月から橿原市に転居した下の娘の家に1週間ほど滞在し、時には家内と2人で、時には1人で気の向くままに足を運んだものです。
 
《シートで覆われた高松塚古墳》
高松塚古墳は近鉄・飛鳥駅から歩いて約15分。小高い丘の中腹にありましたが、保存整備のためシートで覆われていました=写真= 本来の姿を見ることができなかったのは残念ですが、彩色の飛鳥美人は隣接の壁画館で見ることができました。

 大化の改新のころ、蘇我一族の館があったと伝えられる甘樫丘から大和三山といわれる香具山、畝傍山、耳成山を眺めているうち、やはり中大兄皇子と大海人皇子の兄弟から愛された万葉のヒロイン・額田王を想い起こしておりました。

 甘樫丘から歩いて20分ぐらいの奈良県立万葉文化館に寄ったところ、万葉劇場で額田王が恋と歌に生きた女流歌人として紹介されており、古代権力者たちの熱愛物語をさらに詳しく知ることができました。万葉の里は恋の里でもあったようです。
 《平城山の歌に惹かれて》
 昨年12月、首都圏に在住されている方々の忘年会で、ジローさんや伊藤さんが歌ってくださった「平城山の歌」にゆかりの磐之媛命陵にも寄ることができました。根っからの音痴で、音楽の世界とは縁遠い生活でしたが、何故か歌詞も知らない「平城山」の琴の調べが心に残っておりました。
 
 近年、その歌詞や、歌詞に出てくる古の人が磐之媛という古墳時代の皇妃であったことなどを知り、また平城山という地名にも惹かれ、一度は訪れてみたいと思っていた所です。

 近鉄・大和西大寺駅から歩いて約30分。平城宮跡の近くで、古墳の多いところでした。磐之媛は仁徳天皇の皇后で嫉妬深い女性と伝えられているようですが、情熱的な女性歌人でもあったようです。
 この日は小雨模様でしたが、傘をさしながら古墳巡りをしているという男性2人と出会いました。このうち三重県津市から来たという方にシャッターを押してもらった記念の写真を掲載するつもりでしたが、本人が写っていない陵墓だけの写真にしました。
 飛鳥も平城山も機会があれば再度、足を運んでみたいところでした。

2009年8月26日水曜日

月下美人

月下美人といっても残念ながら? 湯(?)上り浴衣姿の美人のことでありません。
一夜しか花が咲かない「純白色の美人の花」のことです。
メキシコ原産サボテン科クジャクサボテン属、日本では月下美人と名付けられています。
香りが強く、花が咲くと甘い匂いがして自分の存在をPRします。
花ことばは、「はかない美」「はかない恋」「繊細」「快楽」「一度だけ会いたくて」など、切ない言葉ですね。
20年くらい前から自宅で育て、10年前から花が咲くようになりました。
その間、転勤のときも赴任地にも家族の一員として行き来しております。
夕方になると蕾が膨らみ。暗くなると段々花が開いてきます。
二枚目の写真は 19時30分頃から咲きはじめます。
22〜23時頃が満開(三枚目の写真)、午前2時頃には 萎んでしまい「儚い一生」を終えてしまいます。

「花の命は短くて・・・・」とは まさしく月下美人の数時間の花の命 に相応しいかも知れま
せん。  中村 弘

2009年8月24日月曜日

しばらくぶりです

あれから上達せず 皆さんの投稿を心待ちにして 眺めているだけのわたしでした。近頃は書き込みがすくないなーぐらいでね。それに文才はないし 言葉も知らないし 写真も取り入れられないし とんでもないお仲間にもぐりこんでしまったわ~と 後悔の念にかられてました。(本音です) だけど このまま沈むんではジローさん他みなさんに合わす顔がないわー がんばろー。再度デビューのつもり?      今年もあついぞ熊谷  と報告したかったのですが ごぞんじの様に冷夏で すごしやすいと言えばそうですが もの足りない季節でしたね。ましてや 戦争で焼け野原となった熊谷の復興を目指して開催されていて第60回目の花火大会も雨でさんざんでした。昨年はシンガポールから帰国した長女家族の孫たちが喜ぶだろうと 奮発して二万円の桟敷席で目の前で上がる花火とすさましいばかりの音に大喜びされ じじ ばばは満足でした。が 今年も アンコール とめったに要求しない孫の頼みに 普通に見てればタダなのに 今年もがんばりました。ブルーのシートが敷きつめられていて4人が座れるぐらいの囲いになってざふとん4枚が 準備されてるだけです。お天気も危ぶまれていたのですが 雨も降っていないし万が一のためと傘は持っていったのが幸いでした。なにせ二万円も出しているのだからと行きましたよ。開催地の駅に着いたら ポツポツ雨です。 帰る人たちもいましたが 浴衣を可愛く着てるカップル 現代的な着付けにびっくりし 会場に歩を進め かかりの人に案内され 席につきました。    最初は たこ焼き ちょこばなな 焼きそば やきとり 等々「雨の中で食べるのも おつだね~」    花火がバーンバーン上がり始めたら 「花火の力ってすごいね 雨までやませるね」子供たちのパパがそんなことをいいながらまたまた屋台に買い出しに 行ってちょっとしたピクニック気分で 食べて 飲んで 花火に感動し「 今は コンピューターで操作するから音楽に合わせても打ちあがるんだよ 。」 

そうなのか~しばし 傘なしで 楽しんでいたら ジワジワ降り始め 本格的になり ブルーシートに水が溜まり始め  すこし斜めの土手なので流れてくるのです。さあ 御名御璽?それまでってことで 帰ることにしました。半分ぐらいでした。

家族の感想です。    去年のはノーマルに良かったけど 今年は今年で二度と経験できない花火大会だった   うーん よかった! 来年もぜひ!   ないしんわたしは え~。