2009年9月22日火曜日

敬老の日と還暦野球

敬老の日の21日は山形も好天に恵まれ、山形市長杯還暦野球大会という
高齢者の野球大会を主催し、自らもプレーを楽しみました。

朝6時40分に自宅を出て、霞城公園の中にある野球場で、
ダイヤモンドのライン引きに始まり、審判を務めたほか、
自チームが出場する試合では監督をしながら
ショートを守ったり、キャッチャーをやって
目いっぱい体を動かしてきました。

還暦野球は文字通り60歳以上の野球です。
この日の大会は例年、10月の体育の日を中心に開催してきましたが、
今年は会場となる野球場の関係で、敬老の日が開催日となりました。

敬老の日としては「元気なおじいちゃんたち」ということで、
地元の報道機関に格好の話題を提供したようです。
何社かのテレビニュースで放映されました。

本人たちは万年・野球小僧のつもりで張り切っておりますが、
体の方は正直なものです。
頑張れば頑張るほど珍プレーとなってしまいます。

個人的には70歳になっても野球をしたいと考えています。
還暦野球よりも1ランク上(?)の古稀野球の全国大会があるからです。

昨日の試合は6-6の同点でしたが
大会規定によって抽選で勝ち上がったため、
今日22日は準決勝に出場しなければなりません。
さらに閉会式が終わるまで大会主催者側としての務めも残っています。
7時半に家を出て頑張ってきます。

2009年9月19日土曜日

愛称

澄ちゃん、敏ちゃん、恒ちゃん、靖ちゃん、静ちゃん、万寿子ちゃん、トミちゃん、公ちゃん、富貴ちゃん…とキーボードを打っているうちに、なぜか「ふぅー」とため息がもれた。

緊張しているのかな-。小・中学校の同級生とはいえ、
これだけ女性の愛称を口にしながら(?)記した経験はない。

傍に誰がいるわけでもないのに、気恥ずかしさがこみあげてくる。
ということは、この方々は今でも、名前だけで人をときめかせるものを持っているのかな?

 「まさかぁ。少なくとも彼女たちはお前さんより年上だよ」。
(小生は早生まれ。多くの同級生より1つ若いつもりでいる)

だが、50年前に次々と口にすることができていたなら、
人生が変わっていたかな。もしかしてバラ色? 
ということはあり得ないなあ。むしろバラバラ色だろうね。

現実性のない、途方もないことを想い浮かべているうちに?・?・? 
今日は何を書くつもりだったのかなあ。一瞬、考えてしまった。

最近、こうしたケースは珍しいことではない。
例えばグラスを取りに行って戸棚の前に立つと、
あれ何をしに来たんだっけ?ということを繰り返している。

話が横にそれてしまったが、今月26日(土)午後5時半から山形市で、
埼玉県からご帰省なさる美樹ちゃんを囲み夕食会を開く。

その出席予定の方々を紹介するために、パソコンを打ち始めたものだった。
前記の方々のほか、男性では康夫君、一雄君、隆君が出席してくださる予定。

久しぶりのミニ同級会なので、皆さんよろしくーということお伝えするために、
ファーストネームというか愛称(親しみをこめたつもり)で
書き始めた文章がこんな形になってしまいました。

2009年9月15日火曜日

続・3年F組の女性

もう1人、F組女性との会話から。

「〇〇ちゃんを囲む夕食会の場所、決まったがあ?」。
「はい。山形テルサに近いイガッタ(Igatta)という店に決めました」。

「何、エガッタ? ほだな店あんの?」。
「エガッタではなくイガッタです! 煙突のエではなく、石ころのイ!」

「んだがらエスころのエだべ」。

「石畳のイですよ」「エスダダミのエ」。
「糸のイ」「ほいずはエドっだなあ」。
何だかからかわれているような気がする。

そして「イチローのイですよ」と言うと、
急に口調が変わり「そうね、エズローとは言えないわね」。

ということで、最初から分かっていたらしい。
そして追い打ちがきた。

「イガッタでエガッタ!エガッタ! あはははー」。
「・・・」。あっけにとられて返す言葉がない。
3年F組は女性上位と聞いていたが、
まさしくその通りかもしれない。

3年F組の女性との会話から

ある朝、8時少し前に電話が鳴った。

「もしもし…」。寝ぼけ声で受話器を取ると
「あぁogaちゃん? **子です。おはよう。起ぎっだけべー」と、
おっそろしく元気な声が飛び込んできた。

「ogaちゃんは朝5時ごろ起ぎでマイニズ散歩してるてゆったけずねー」。
「???」。朝はけっして早いほうではない。
たまに5時ころ目を覚ますことはあっても、せいぜいパソコンに向かう程度。
散歩に出たことは一度もない。
この時も、まだ布団の中だった。

「誰かと勘違いしているのかな」と思いながら、
生返事をしていると「〇〇ちゃんから電話あったけベー」。
再度「???」。
〇〇ちゃんがよく聞き取れない。
「えっ、誰からですか?」。「〇〇ちゃんョ、〇〇ちゃん」。どうしても聞き取れない。

無言でいると「何、分がんねの。〇・〇・ちゃ・ん!」。
語気が一段と強くなった。「今度、ヤマガダさ来る同級生だべずー」ということで、
何とか〇〇さんの件であることが分かった。

用件は「私ョ、上山さえぐ用事あっから、
その帰り〇〇ちゃんば乗せてくっがっらナ」ということだった。

3年F組の女性は幾つになっても迫力がある。
濁音に語尾の強い話しぶりは“郷土文化”を継承なさっている証でもあろう。
そして温もりがある。でも〇〇ちゃんと呼んでいた名前は今もってわからない。

2009年9月14日月曜日

上山出身のピアニスト。


 大分前になりますが、上山在住の吉野静子さんから月刊ミニマガジン「かみのやま」を送っていただきました。

 早速目を通したところ、最初に目に留まった記事が、上山出身のピアニスト永田美穂さんによる寄稿文、「パリでの音楽修行」についてでした。

 「アレッ、永田歯科医院のお孫さんかしら?」と思いながら、その記事を読みました。

 上山小から上山北中卒業後、東京の桐朋女子高校音楽科を経て桐朋学園大学演奏学科を卒業後、フランス、イタリアに音楽留学をし、現在はパリ在住との事。

 その間、各種コンクールに参加、入賞、そして時々帰郷し、故郷でのコンサートを開かれているとの事でした。
 最近では、8/30に上山で開催されました。
 謂わば日本における若手のホープというところでしょうか。

 また留学中は、練習やコンサートの合間を利用してフランス語のレッスンに通い、それも何とか克服されたとの事。
 活動拠点がヨーロッパの為、演奏旅行の先々で、現地在住の日本人や知遇を得た人々の歓待を受け、日本人として立派な民間外交を果たされているご様子には感銘を受けました。
 我ら同郷の誇りとして、暖かく見守りたいものですね。

 ちなみに、昔まだ小学低学年だったころ、確か虫歯の治療で、母親と共に同医院を訪ねた日の事を思い出しました。
 治療台に上がった途端、「嫌だ~」と大ゴネをし、先生をはじめ周りの方々のやさしい説得にも屈せず治療台を降りた途端、先生の一言「こんな我儘な子供は初めてだ!!」 と怒られた事を思い出しました。
 機会がありましたら、永田美穂さんのコンサートに行きたいものですね。

2009年9月10日木曜日

かみのやま温泉「山城屋旅館」

【歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿は高橋健三君の生家】
 「歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿」として知られるかみのやま温泉の山城屋旅館は静岡県藤枝市在住の東濤会会員・高橋健三君の生家でもある。健三君の祖父・高橋四郎兵衛さんが茂吉翁の実弟で、茂吉翁の著書や遺墨、書簡、写真などが数多く残されている。
歌聖の息遣いが伝わってきそうな山城屋旅館館内には常設展示室が設けられ、その一部がいつでも見ることができるという。母親がアララギ系の歌人でもあった鈴木正朗君と同旅館を訪ね、健三君の兄・豊二さんから山城屋と茂吉翁の思い出などをお聞きした。

《祖父は茂吉翁の実弟》
 山城屋旅館はかみのやま温泉の湯町地区にある。大正ロマンを感じさせる純和風の木造3階建て。美しい日本庭園を備え、2階には茂吉翁の書跡展示室がある。
 四郎兵衛さんは幼名を直吉といい、山城屋の養子になって四郎兵衛を襲名した。生涯、兄の茂吉翁を慕い、誇りにしていた。茂吉翁も帰郷した際はきまって山城屋に滞在し、四郎兵衛さんばかりでなく、甥の重男さん(健三君たちの父)を「シゲオ、シゲオ」といって可愛がり、外出にはよく同行させていた。健三君たちを膝の上に抱いてくれることもあり、家族のようにして寛いでいたという。山城屋滞在中に詠んだ歌も何首かある。

《茂吉翁の頭をなでる・やんちゃだった健三君》
 健三君より2つ年上の豊二さんは「やんちゃな健三が3歳ぐらいのとき、いたずらで茂吉の頭をなでたところ、祖父からひどく怒られたことを覚えている」という。四郎兵衛さんはよその子供でも悪さをするとよく叱った。近所の子供たちにとっては「おっかない爺さん」でもあったらしい。

《蔵王山頂に歌碑を建立》
 「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」。有名な蔵王山頂の歌碑は大正9年、四郎兵衛さんの尽力によって建立された。短歌そのものが歌碑建立のために作られ、歌碑の文字も茂吉翁が揮毫した。台座やさお石は四郎兵衛さんと重男さんが何度か蔵王に登って探し当てた。全国各地に数多く建立された茂吉翁の歌碑の中で、茂吉翁生前の歌碑はこの蔵王山頂の歌碑だけという。この歌碑建立にあたり、茂吉翁が四郎兵衛さんと重男さんに宛てた書簡も山城屋の書跡展示室に展示されている。

《貴重な資料が並ぶ常設展示室》
 貴重な資料が並ぶ書跡展示室四郎兵衛さんは山城屋の3代目。木造3階建ての建物や日本庭園は四郎兵衛さんの代に整備された。客室には「あらたま」とか「赤光」といった茂吉翁の歌集名が付けられ、どの客室からも日本庭園と蔵王の山並みが見えるようになっている。茂吉翁や蔵王に寄せる四郎兵衛さんの想いが込められているという。

《蔵王は特別な存在・子供の頃からよく登る》
 「蔵王には子供のころからよく連れていかれた。暁登山は夜8時ころ上山を出発し、夜通し歩いて山頂まで登った。歌碑のこともあり、家族にとって蔵王は特別の存在でもあったようだ」という豊二さん。この7月15日は健三君と二人で熊野岳に登り、歌碑を観てきたという。今も森林インストラクターとして活動を続ける健三君は8月24日から木曽駒ケ岳、宝剣岳、笠ケ岳を歩いてきたばかり。その原点は蔵王にあったのだろうか。そういえば健三君は子供のころからスキーも上手だった。小学校の校内スキー大会で、健三君が山頂からさっそうと滑ってくる姿をただ驚きの目で見ていたことを思い出す。
 山城屋の客室はいずれも8畳の2間続きか3間続き。ゆっくり寛ぎながら日本庭園や蔵王連峰を眺め、温泉に浸る。そして偉大な歌人・斎藤茂吉翁の足跡に触れることができる。上山城や武家屋敷までは歩いて3分から5分。首都圏をはじめ県外客にも親しまれ、リピーターが多いという。いで湯のまちの老舗旅館は文化人ぞろいの東濤会員にもお誂え向きの宿かもしれない。(小笠原英雄記)

2009年9月9日水曜日

飛鳥と平城山

皆さんお変わりありませんか。今夏、奈良県飛鳥地方の高松塚古墳や甘樫丘、飛鳥寺、万葉文化館などを訪れ、古代国家の歴史や万葉人の歌心を育んだ地域の一端を垣間見てきました。
 今年3月から橿原市に転居した下の娘の家に1週間ほど滞在し、時には家内と2人で、時には1人で気の向くままに足を運んだものです。
 
《シートで覆われた高松塚古墳》
高松塚古墳は近鉄・飛鳥駅から歩いて約15分。小高い丘の中腹にありましたが、保存整備のためシートで覆われていました=写真= 本来の姿を見ることができなかったのは残念ですが、彩色の飛鳥美人は隣接の壁画館で見ることができました。

 大化の改新のころ、蘇我一族の館があったと伝えられる甘樫丘から大和三山といわれる香具山、畝傍山、耳成山を眺めているうち、やはり中大兄皇子と大海人皇子の兄弟から愛された万葉のヒロイン・額田王を想い起こしておりました。

 甘樫丘から歩いて20分ぐらいの奈良県立万葉文化館に寄ったところ、万葉劇場で額田王が恋と歌に生きた女流歌人として紹介されており、古代権力者たちの熱愛物語をさらに詳しく知ることができました。万葉の里は恋の里でもあったようです。
 《平城山の歌に惹かれて》
 昨年12月、首都圏に在住されている方々の忘年会で、ジローさんや伊藤さんが歌ってくださった「平城山の歌」にゆかりの磐之媛命陵にも寄ることができました。根っからの音痴で、音楽の世界とは縁遠い生活でしたが、何故か歌詞も知らない「平城山」の琴の調べが心に残っておりました。
 
 近年、その歌詞や、歌詞に出てくる古の人が磐之媛という古墳時代の皇妃であったことなどを知り、また平城山という地名にも惹かれ、一度は訪れてみたいと思っていた所です。

 近鉄・大和西大寺駅から歩いて約30分。平城宮跡の近くで、古墳の多いところでした。磐之媛は仁徳天皇の皇后で嫉妬深い女性と伝えられているようですが、情熱的な女性歌人でもあったようです。
 この日は小雨模様でしたが、傘をさしながら古墳巡りをしているという男性2人と出会いました。このうち三重県津市から来たという方にシャッターを押してもらった記念の写真を掲載するつもりでしたが、本人が写っていない陵墓だけの写真にしました。
 飛鳥も平城山も機会があれば再度、足を運んでみたいところでした。