2008年4月27日日曜日

6年1組花見は雨で中止

 6年1組の花見はあいにくの雨で中止せざるを得ませんでした。前日までの好天がうらめしい…と嘆きたいところでしたが、主たる目的は「まず集う」こと。そしてクラス会の相談をすることでした。

 集合場所のスーパーマーケット(JRかみのやま温泉駅の北東側)で買物をした後、近くの藤倉恒子さん宅へ直行しました。

 集まったのは藤倉さんのほか鏡(旧姓安孫子)ナヲさん、墫守人君、鈴木通世君、長岡一雄君、花屋隆君、それに小生小笠原英雄の7人です。

 午前10時半ころから、買い揃えた好みの酒肴をテーブルに並べ、誰が音頭を取るでもなく、一斉に「カンパーイ!」となりました。7人がそろって顔を合わせるのは2004年1月以来、4年3カ月ぶり。

 「胃の摘出手術を受けた」「脳梗塞になりかけた」「狭心症で血液サラサラの薬を常用している」といった互いの健康状況から、毎年個展を開く花屋君の絵画をはじめ、藤倉さんのフォークダンスとハンドベル、長岡君の自彊術、通世君のデジカメと家庭菜園、ナヲさんの公民館ダンス、まだコンサルタントの仕事をしている墫君―といったように、最近のライフスタイルなどを一通り語り合った後、藤倉さんと通世君が準備してくれた古いアルバムをめくりはじめると、座は小中学校時代へタイムスリップ。級友の消息を含め話は一段と弾み、はじけ飛ぶ感じでした。

 写真はクラスごとの記念写真から修学旅行のスナップ、卒業記念アルバム、さらに昭和36年から始めたクラス会のスナップなど、懐かしいものばかり。初めて目にするような写真もたくさんありました。

 子供の頃の自分が分からず「オレはどこにいるの?」。「これがあなたでしょう」といわれた本人が「本当にそうなの」と首を傾げる場面もありました。
 そして、ある年のクラス会で「女房も連れてきた」と言いながら、実は奥さんではない女性を同伴していた―といったマル秘の話も次々に飛び出し、時間はあっという間に過ぎていきました。

 この間、花屋君が台所に立ち、自慢のマーボー豆腐を作ってくれました。自ら調達してきた調味料を駆使し、ピリッと引き締まった味のマーボー豆腐でした。

 一口食べて「白いご飯がほしくなった」との声に、藤倉さんが「じゃあご飯を炊こう」とすぐ反応してくれ、何分か後に極上のマーボーライスを味わうことができました。 遠慮がないのも同級生の特権でしょうか。

 肝心のクラス会開催が話題になったのは午後3時半過ぎ。連絡役の藤倉さんが担任だった有馬館の須藤清雄先生に電話を入れ、先生がお元気であることを確認して11月6日(木)有馬館で実施することになりました。これから役割を分担し、準備を進めます。

 花見についてはジローさんから、しっかり取材するように―と厳命を受けておりましたが、カメラのシャッターをまったく押していませんでした。代わりに花屋君が描いてくれた小生の横顔=右=を添付します。

2008年4月24日木曜日

プルス(袴田)雪子さんの「ブログ」について

 東京東濤会という山形東高10回生(昭和35年卒業)のブログに投稿していたプルス(袴田)雪子さんが自らのブログを立ち上げました。
 ブログ名は「レマン湖畔より」
 スイスの生活やレマン湖周辺の様子など、写真を添えて紹介しています。なかなか素敵なブログなので、ぜひ上山小中学校の同級生にも公開してほしい‐とお願いしたところ、当ブログからのリンクを承諾していただきました。早速、リンク欄に掲載します。皆さん、ご覧になってください。

 なお、お忙しい日々をお過ごしにもかかわらず、当ブログをご覧になって下さいました。折りを見て当ブログへのご投稿もお願いしてみようと思います。

2008年4月23日水曜日

六年五組の美男美女達!!

 迷っていたのですが、投稿しちゃいました・・・
 六年五組の皆様、無断投稿ごめんなさい。

 4年半前のクラス会の模様です。

 鈴木文右衛門先生、とてもお若いですよね。他の男性と年齢差が感じられません。
 とてもお元気でまたダンディーな振舞いに、小学校の時とは違った感情が沸いてきました。
 ダンスを踊られてとても楽しそうでしたよ。お上手で私も誘われたのですが、不器用な私はダンス等踊れません。おみ足でも踏んでしまったら、ますます印象が悪くなるので、丁重にお断りしました。
 でも、ちょっと心残りでした。

 六年五組の皆様!!
 近況をお知らせ下さい。携帯、パソコンメールどちらからも可能ですから・・・

2008年4月20日日曜日

六年七組ハナミ!!



4月10日ごろ、石垣さんから電話がありまして、大石一丁目の岩井
さんの家で六年七組の花見をするから集まりましょうと言う連絡でした。
期日、4月20日(日)
時間、12時(?)
そして今日写真の方々が集まって夕方6時頃まで、気持ちは青春
姿はそれなりに、、、。楽しかったようですよ。(主人に代わって)

桜 満開











先週の日曜日(13日)に桜の開花宣言をしましたが、ここ3~4日の不順

な天候であるいは散ってしまったかなと思いました。

 朝からの良い天気に誘われて、武家屋敷から上小を通って月岡神社

方面にをたどってみました。

 武家屋敷の山田家、曽我部家のソメイヨシノとシダレサクラが丁度み

ごろなので胸ワクワク。

 学校の二宮尊徳さんもソメイヨシノの甘い香りに微笑んでいるようです。

道路を左手に坂道を登り神社の境内にゆきますと、見事!!それに、

春雨庵から分枝した沢庵桜も濃いピンクの花と美しい若葉を同時に

つけていました。

お城のわきの階段を下りていくと足湯のところにも大勢の方々、そし

てひろばでは花見の宴、遠く蔵王の山々はまだ雪、けぶるような里山

の三吉山そして目の前は桜の花の濃淡の華やかな色おー、ナイス

ビュー!!故郷の花景色を見てください。

2008年4月16日水曜日

ミニクラス会開催の報告(上中3年E組)


 去る4月6日(日)18:00〜20:00迄、JR新橋駅銀座口直近の居酒屋「わん」で上中ー3E東京のミニクラス会を開催しました。 中村 弘君(三重県在住)が所用で上京、それに合わせての開催。 首都圏在住男子6名中、林部 伸太郎君、伊東 宏一君の2名出席、合計3名のミニクラス会。 再会を祝し乾杯! 互いの近況報告などで旧交を温め、アンチ生活習慣病&再会を約し「お開き」楽しいひと時でした。 添付の写真は @日比谷公園(伊東、中村)、@「わん」林部・中村・伊東、

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆伊東 宏一
納豆博士&千葉県食育ボランティア

2008年4月13日日曜日

オークションのおすすめ。

 私は、ちょっとしたオークションオタクです。

 きっかけは、今からさかのぼること6年前。息子が成人したのを機に、独立させようと都内にアパートを借りました。学生の身分での独立なので、贅沢は禁、として日常生活用品になるべくお金をかけない工夫が出来ないものかと思っている時、ヤフーオークションを知りました。

 洗濯機、掃除機、寝具等当座に間に合うだけの用品を格安で仕入れたときは、我ながら悦に浸りましたが、息子は不満だった様です。殆どのものが中古品だった事に対する不満ではなく、私のセンスの悪さにがっかりしたのだと思います。その教訓を生かしたのか、昨年社会人になる数箇月前から、引越しの準備としてオークションで生活用品を揃えていました。その上手な買物に親の私もびっくり。一時息子もオークションオタクになりつつありましたが、今はそんな時間もないらしく、新品の購入を余儀なくされている様です。

 不要になったものをオークションに出品し、必要とする方がそれを落札する事により、限られた資源を大切に有効に生かすというその精神がとても好きです。

 時々新聞で報じられるオークションの不正利用者に対して警戒心を持ち、そのリサイクル型オークションを利用しない方も私の友人等を含め結構いますが、私は
お薦めです

 ただ利用に際して一番大切な事は、正直である事信用を得る事がとても大切な事です。

 例えば、こちらが不要になった洗濯機を出品しようとした時、一部分に傷があった場合、出品用の画像に大きく写し出し、「傷があります」、と正直に訴える事。

 又、こちらが落札(つまり欲しいと思った商品を手に入れる事)した時は、すぐに指定の銀行に代金を入金する事。・・・・です。

 オークション歴6年になりますが、今まで落札した品物は、書棚、たんす、電化製品、寝具、ビール、パソコンソフト、CD、バック、化粧品、プリンターインク、アクセサリー、電子辞書、家具調こたつ、食器、コンタクト洗浄液、ドックグッズ、本等等です。数えてみたら100件余ありました。

 不用品を出品する事もとても面白いですよ。これは、病み付きになりそうです。

 昔子供たちが愛用していたCD、漫画本、ぬいぐるみ、私に合わなかった化粧品等等です。殆どの商品は他の人に利用していただきました。この際大事な事は、儲けようとしない事不当に高く値をつけない事が原則です。

 循環型社会に自分も参加しているという認識を持つ事が大事だとおもいます。

 一度、ヤフーオークションのホームページを訪ねてみて下さい。

2008年4月9日水曜日

好文木

 年のせいか目覚めは早い。ogaさんの健脚には及ぶべくもないが、早朝散歩に出る。
つい2ヶ月前には暗かったが、今は出かけてまもなく朝焼けになり、家に戻るころには朝日
が出ている。今日の日曜日は快晴だ。思わず口ずさみたくなる、清少納言の枕草子の
あの一節「春は曙・・・・・」あとが続かない。もし覚えている人がいたらその一節教えて
下さい。
 
 春先は雑務が多い。町内一斉清掃による側溝掃除、猫の額の庭であるが雪囲いはずし、
枝の剪定と消毒、冬タイヤから夏タイヤへの交換等等。
 側溝掃除とタイヤ交換をして「やれやれ・・」と思っていたら、女房殿の長電話がいつもより
長く、声も弾んでいる。いやな予感が走る。
「こんなに天気がよいのだから、どっかさ、行くべー」。案の定であった。
 
 庄内「湯田川温泉」の梅祭りに行くことにした。車は月山道をひた走る。正面に際立って
白い月山を見る。つい数日前に雪が降ったからだろう。山道にかかっても路面は乾いている。
両脇の山肌には残雪がまだまだ多い。
 
 カーラジオから流れる「パットブーン」の「アナスタシア」、たちまち意識は青春時代に引き
戻される。鉛を飲み込んだような重い苦痛が蘇る。
  
 高校卒業の翌年の夏の初め、上野駅に鴨家君は迎えに来てくれた。小雨に煙っていた
宵のころ、新宿の音楽喫茶に入った。初めての音楽喫茶。結構広い会場で、出演者は
当時ヒット中の「井上ひろし」、「ルイジアナママ」がヒット前の「飯田久彦」、そして「ミッキー
カーチス」。司会者が井上ひろしの「雨に咲く花」を紹介すると、間髪をいれず観客席から
「外は雨よ!」と若い女性の掛け合いが入る。どっと沸く会場。「そうか、これが東京か!」
と思った。
 
 翌年、東京に就職し会社の寮に入ったがなじめず、鴨家君のアパートに転がり込む。
私は昼の勤務、彼は夜の勤務、すれ違いの生活を数ヶ月した。
 最後に彼と会ったのが昭和49年の山形。その後は時々電話で話したが6年前から
音信不通になった。これは私のせいなのだ。彼はいま生きているのだろうか?
 
 やがて、湯田川温泉に入る。ずいぶんと人が歩いている。駐車場入り口も列を成している。
藤沢周平人気のせいか。宿は10件ほどだが大きくはなくともなかなか格式のある旅館もある。
 黒い板塀の上から、樫、椿、梅、松等が枝を覗かせている。門から海坂藩の武士がすっと
出てくる錯覚に襲われる。
 
 公園は小高い丘にあり、段々状の丘ごとに梅ノ木がある。紅梅が多い。以前は、梅の花
には何か物足りなさを感じたが、今はその楚楚とした閑雅な風情に気品を感じる。
 古代の中国において、梅ノ木は文学を好むゆえ「好文木」とも言われたと言う。
花の下で現地の人がしゃべっていた。梅には庄内弁が似合う。
 「春の夜の闇はあやなし梅の花、色こそ見えね香やは隠るる」(凡河内躬恒)
私の好きな歌です。
 
帰途、庄内から見た月山は、キャンバスに厚い白色を塗ったようで、神々しく荘厳であった。
 
 
nobu
 
 
 
 
 
 

2008年4月8日火曜日

2008年4月7日月曜日

小学校時代ね・・?

小学校の時を思い出すなんて事は ほんとに、ほんとに無かったので絞り出しているいるところです。今は桜のたよりで満開で時期はずれの感が否めないのですが、冬の雪道のためそれとも 長雨のためなのか 長靴に金色で名前を書いてくれるおじさんが学校にきてくれた気がするのです。自分の名前が金色で書かれるなんて 心が弾むじゃないですか!何かうきうきと 決められた所に持っていき遊び時間に 書きあがっているかどうか 何度か足を運んだような~。たしか低学年でした。ふだんは下駄で学校にいきましたね。

 私の担任の先生は3年途中から6年まで須藤清雄先生で母の従姉弟なのです。だから家庭訪問も一度も無く 家の前が先生の家 つまり有馬館です。 藤倉さんや菅原一ちゃんがピアノを習っていて 付いて行き習わず遊んでいました。今考えると惜しいことをしました。バイエルぐらい弾けたら今頃は、優雅にポロロン~でしたね。父は戦死して金持ちでもないのに 母が好きだったのか日本舞踊を習わされていました。きっと明るく生きようと前向きだったのでしょう。だから私はピアノはいいやーとしなかったのかもしれません。

踊りといえば4月8日の大般若・寿仙寺で五助の典子ちゃん 松本屋ののぶこちゃん達と踊りました。月岡神社のお祭りで角兵衛獅子の扮装して踊ったのですが 何故か鼻の下をブルーに塗る化粧をされておんおん泣いたり、映画館のときわ館では発表会で本格的にかつらをつけて踊りました。その時よねやのはるみちゃんなどとても可愛くすばらしかったです。踊りの縁でよねやの大広間の舞台が稽古場になった時もあり 何度か通いました。原田さんにはお世話になってたわけですね。

 私には学校よりこちらの方が鮮明に思い出されました。小学4年ぐらいまでの話です。

私事でつまらなかったでしょう。

2008年4月5日土曜日

桜満開です。


    私の住んでいる日高市は、今日桜が満開になりました。

 桜は何時、何処で眺めても良いものですね。

 アップの画像は夫が朝のジローの散歩の時に撮ったものです。

 この時期になると、この地域に住んでいる幸せみたいなものを実感します。

 でも、今年の桜色は色が薄めに思えたのですが・・・。

2008年4月4日金曜日

もう一度1~2年3組の写真

 小学1~2年3組の写真で小池國男君の名前が出ていましたが、彼も同じクラスだったのでしょうか。本人はほとんど覚えていないようですが、担任は「まだ若くて元気のいい女の先生だった。後で中学校の柴田先生の奥さんになった人だ」と言っておりました。枝松先生が柴田先生の奥さんになった方ですか?
 その國男君は定年退職後、水彩の植物画をはじめ、毎日のように絵筆を執っているようです。教室とか講座に通っているわけではなく、独学で黙々とスケッチブックや色紙、短冊などに筆を運んでいます。
 本人は「人に見せるような絵ではない」と言っておりますが、無造作に置いてあった作品を無理に撮ってきました。還暦の手習い。よく頑張っていると思います。2枚の写真がその作品です。
 ちなみに國男君の父親と小生の母親が姉弟で、我々は「いとこ」同士です。PCはまったく無縁と言っておりますから、代わりに写真を投稿します。多分、本人の目に入ることはないと思いますが…。
 それからsizuさん、アオサギの件ありがとうございます。通りがかりで珍しかったものですから、ついシャッターを押しました。少し上流ではカモの姿も見られ、気持ちが安らぎました。

ブログデビューおめでとうございます





とんちゃんおしばらくです。

コメントでなくお見せしたいものが在りましたのでこちらのページに載せました。

上山在住の女性会員がいませんので、つたない文章と写真で蔵王の麓から

故郷便りをかいています。

関東方面からは桜の花便りが毎日届き、宇都宮あたりまで北上しておりま

すが、かみのやまはまだまだ、、、。梅の花もまだ蕾です。このウメは尾形家

の梅の木でして畑がすぐ隣にありますのでいつも花見をさせていただいております。

スイセンチュウリップも蕾、元気よく咲いているのはパンジーやサクラソウですね。

桜が咲きましたらあちらこちらアップしたいと思います。見てくださいね。

2008年4月3日木曜日

故郷思い出巡り

皆さんの懐かしい話を足で辿ってみたくなり、2日の水曜日に山形から上山市内をウォーキングで往復してきた。
 往路は半郷まで高湯街道、半郷からは上山東街道と、昔の街道をイメージしたルート。桜田、成沢、半郷、金瓶、金谷、泉川を通って上山に入った。
 高湯街道は山形の六椹八幡が起点。鉄砲町の集落(西高の東側)から元木、青田、桜田へと通じていたらしい。道幅は大八車が通れる程度。成沢とか半郷、金瓶の集落内を通ると旧街道の面影が残る。
 泉川からは宮川の橋を渡った後、すぐ左折し、前川沿いに市街地へ向った。奥羽本線の鉄橋下をくぐり、北町から新丁通りに出た。ポンプ小屋と読んでいた消防車の車庫や嘉平さんの茅葺き屋根が健在だった。
 城下町の出入り口でもあったクランクも懐かしい。昔、突き当りの床屋さんにトラックが突っ込んでいるのを何度か見た。新丁33番地。小生の本籍だが、もう実家はない。北燐だった洋品店の駐車場になっている。
 お不動様の参道から石段を上り、境内に出た。小学生のころ毎日、暗くなるまで遊んでいたホームグラウンドだ。学校の記憶は薄いが、こっちは思い出が深い。
 石段脇のキャラ木。赤い実を口にしたこともあった。地蔵尊や三角ベースの野球に興じた境内、稲荷さま、そして十日町の圏域になる愛宕神社。いずれも昔のままに近い。祖母に連れられ地蔵講だったのか、数珠回しの輪に入れられた記憶もある。
 切り通しから御井戸町、湯町を抜け、武家屋敷に出た。一番北側の旧曽我部家は小6で同級生だったミヤコちゃんの家。玄関前の水琴窟でしばらく耳を傾けた。さらに新湯の旅館街から春雨庵まで足をのばし、沢庵和尚に手を合わせてきた。
 帰りは旧羽州街道を辿る。小学校から下大湯共同浴場前に出て、十日町まるや角から北上。新丁坂下の三差路を左に入って四谷の坂を上る。参勤交代の大名やイサベラバードも通った街道だ。
 坂を上りきり、T字路を右折して百花園からまっすぐ黒沢峠に出るつもりだった。しかし、みはらしの丘の大規模開発で旧道はすっかり姿を消していた。道路は目指す方向と反対の方向へ大きく迂回し、すっかり遠回りになってしまった。
 午前10時に家を出て、帰宅したのは午後4時半過ぎ。途中、昼食や休憩時間を除いて5時間ぐらい歩いたことになる。沿道では散り始めたサザンカやマンサクの黄色い花が目立った。前川のほとりではゴイサギ(?)らしい鳥を写真に収めた。
 写真は上が前川で撮ったゴイサギ(?)。中はかつて小生の実家があった新丁クランク付近。下は羽州街道の黒沢峠です。
 久しぶりの遠出で体のあちこちが痛み始めていたが、時の流れを自らの足と目で確かめ、思い出に浸ることができた。大きな充実感だ。 といっても単なる自己満足に過ぎない。長々と記したがご容赦いただきたい。

2008年4月2日水曜日

中学校の思い出

 皆さん、中学校の思い出はありますか?

 一年の時は、小学校の3~6年の4年間続いた同級生と離れたショックもあり、新同級生にはなかなか馴染めず、教室の中では大分よそよそしい態度を取っていたのを思い出します。

 その態度が生意気に映ったのか、同級のOさんにはかなり苛められました。私の左側に席を置いていたOさんに、突然椅子ごと蹴られた経験があります。それでも知らぬ存ぜぬの私の態度に、さらにその苛めはエスカレートしたのを良く憶えております。

 二年の思い出は、やはり苛め。三年の女子バスケのメンバーに廊下又は体育館で”オオイ~マンドリン”と野次られたのには、閉口しました。どうも私の発育し過ぎのバストを揶揄したのだと思います。でも、やはり無視したのが気に入らなかったのでしょう。彼女達が卒業するまで続きました。

 楽しかった事もあったのです。この年初めて上級生にほのかな思いを持ちました。でもその上級生とは口も聞いた事がなかったのですよ。今は良い思い出です。

 三年の時の思い出は、やはり受験にまつわる思い出ですね。正規の授業後に補習(今みたいに塾とかなかったのですね。)を受けた事。この補習が終ると外は真っ暗、いつも仲条屋の敏ちゃんと帰途につきました。夜なので街中のコースを選び、決まって、「いくよ」の前を通るとき、敏ちゃんと「寄る?」と頷き合って、中華そばを食べた時のあのおいしさを忘れる事が出来ません。どちらかと言うと、補習が目的ではなく、帰りに中華そばを食べたかったのが本心だった様です。

 でも、私は、小遣いを貰っていなかったので、敏ちゃんに借金して食べたものでした。帰宅後母親に、借金の事を言うとすぐ代金を呉れたものです。私なりの知恵だったのでしょうね。

 帰郷の時は、よく「いくよ」に中華そばを食べに寄ります。相変わらずおいしいですね。~

 その敏ちゃんとは、今もずっと交流が続いております。

2008年4月1日火曜日

再度 挑戦

外は春一番の風が吹き荒れています。鴻巣市に合併前は吹上町でしたが名前のゆらいは群馬県の赤城山からの風が吹き上がるからだそうです。ここに居を構えるときは きれいな水が吹き上がる との営業言葉に空気の清々しさをイメージしたのでしたが 上山では経験したことの無い風の強さです。主人の会社に近いということで夏ごろに契約して入居したのが一月。すぐに風の凄さを体験したわけです。ふるい四十年も前のはなしです。住めば都 といいますが 不思議なことに総選挙の時などは山形県の結果のほうに気がいきます。血は山形 上山色のようです。

 66才にしてのpcデビューですので間違いなどご勘弁を。佐藤美樹子さんにいろいろご指導いただきありがとうございます。携帯から投稿してたのですが 料金が高いのであまりお勧めしません。

 庭のあけびもやさしい色の若葉と小豆色の花を芽吹かせて 今年も楽しませてくれそうです。