2008年4月2日水曜日

中学校の思い出

 皆さん、中学校の思い出はありますか?

 一年の時は、小学校の3~6年の4年間続いた同級生と離れたショックもあり、新同級生にはなかなか馴染めず、教室の中では大分よそよそしい態度を取っていたのを思い出します。

 その態度が生意気に映ったのか、同級のOさんにはかなり苛められました。私の左側に席を置いていたOさんに、突然椅子ごと蹴られた経験があります。それでも知らぬ存ぜぬの私の態度に、さらにその苛めはエスカレートしたのを良く憶えております。

 二年の思い出は、やはり苛め。三年の女子バスケのメンバーに廊下又は体育館で”オオイ~マンドリン”と野次られたのには、閉口しました。どうも私の発育し過ぎのバストを揶揄したのだと思います。でも、やはり無視したのが気に入らなかったのでしょう。彼女達が卒業するまで続きました。

 楽しかった事もあったのです。この年初めて上級生にほのかな思いを持ちました。でもその上級生とは口も聞いた事がなかったのですよ。今は良い思い出です。

 三年の時の思い出は、やはり受験にまつわる思い出ですね。正規の授業後に補習(今みたいに塾とかなかったのですね。)を受けた事。この補習が終ると外は真っ暗、いつも仲条屋の敏ちゃんと帰途につきました。夜なので街中のコースを選び、決まって、「いくよ」の前を通るとき、敏ちゃんと「寄る?」と頷き合って、中華そばを食べた時のあのおいしさを忘れる事が出来ません。どちらかと言うと、補習が目的ではなく、帰りに中華そばを食べたかったのが本心だった様です。

 でも、私は、小遣いを貰っていなかったので、敏ちゃんに借金して食べたものでした。帰宅後母親に、借金の事を言うとすぐ代金を呉れたものです。私なりの知恵だったのでしょうね。

 帰郷の時は、よく「いくよ」に中華そばを食べに寄ります。相変わらずおいしいですね。~

 その敏ちゃんとは、今もずっと交流が続いております。

4 件のコメント:

kas さんのコメント...

中学校入学の時は、ジローさんと全く同じように小学校同級の仲間や先生と別れることで喪失感を抱いておりました。また上級生からの集団いじめがあるとの噂があり緊張しました。なお1年では同じ矢来に住むバスケの小松先生に担任していただきどんなことでも相談に乗っていただけると安心したものでした。授業では美術の遠藤福治先生(二日町)から学校の周囲の菜の花の黄色の鮮やかさを教えていただきました。小松さん遠藤さんとレベルの高い専門家の先生から教われるのが中学なのだとひとりで納得しました。
 ジローさんは父上の有名税と性格が地味なのに、全体の雰囲気があでやかなのでいじめの対象になってしまったのでしょうね。非常に卑怯で残念なことです。三年の時は、男子のH君O君からの突っつきが目に付き担任と心配していました。また補習の話面白く拝見しました。私と佐藤広美君庄司嘉昭君が受講しなかったので、掃除を終えるとそそくさと3人で仲良く一緒に下校しました。
 最後に敏ちゃんは、さすが仲条屋の大物です。ロスの妙子さんとも大の仲良しで、石崎神社の祭礼では柏倉本家の100あまりの客膳に正式客として招かれ二人で食事をしたようです。また先年妙子さんが来日した時も敏ちゃんから私に連絡がありました。皆さん大変親密な交流で男性の私にはうらやましい限りです。  柏倉

ジロー さんのコメント...

この投稿を書いている時に、昔の事が改めて思い出され怒りがムラムラと沸いてきまして、一気に書いてしまいました。今更・・・何を・・・と思いましたが、書いた後の後味の悪さは何なのでしょうね。多分夕飯時で空腹感から少々ヒステリックになったのでしょう。
でも、苛めによる自殺とかを新聞で見るにつけ、やはり理由のないいじめはよくないですね。私は、たまたま勝気な性格だった故堪えられたのだと思います。このブログを見たら、その方たちは反省をして頂きたいものです!!。二年の時の担任の言葉も大変傷つきました。これは、前述の苛めの比じゃないですね。でも一年の室星先生、三年の長倉先生は大好きでした。ご健在なのでしょうか?

kas さんのコメント...

 いじめはどんな理由でも良くありません。教育の場で隠れて行われるのが残念です。監視カメラや小型録音機も安くなりましたのでこれで摘発することを考えるべきでしょう。イギリスの学校で効果を上げているようです。
 また長倉先生とは一昨年仙台で花見を計画しましたが、お子さん家族とのお祝いが入り実りませんでした。今年の賀状では「八十歳すぎると、なかなか大変です。」とコメントをいただきました。 柏倉

ジロー さんのコメント...

 お時間のある時で結構ですので、長倉先生の仙台の住所をお教え下さい。
 日野にご在住の頃は、良く年賀状を出していましたが、自然と遠のいておりました。

 今から50年前、長倉先生がご主人の転勤の為にご上京される時、上山駅で涙ながらにお別れしたのを今でも憶えております。