2009年9月30日水曜日

花屋隆さんの絵画展のご案内

花屋隆さんの「絵画展」のご案内のハガキです。
ご本人の了解を得ましたので、アップ致します。

感動の同級会

 去る26日(土)、山形「イガッタ」で同級会が開かれました。
 たまたま母親の13回忌で帰省する機会があり、それに合わせてogaさん初めサワ(澄ちゃん)、ジク(恒子さん)、敏ちゃんのご尽力のお陰で、盛大な同級会に出席させていただき、感激ひとしおです。

 遅れる事10分、会場の「イガッタ」の和室に入るや否や、「まあ、お久し振り~」とのお声があちこちから・・・、「???」と辺りを見渡せば懐かしい顔ばかり、「ミゴちゃんコッチダバー」と私の為に用意してくださった席にひとまず着席。

 「小野さんヒサスブリ」と康夫さんと公ちゃん、「アラッー、久し振り・・・でも、本当に康夫さん?」てな具合で、ランダムな挨拶。
 「アラッー、sizuちゃん?、ブログではお世話になっています。」と隣りに座っているブログ繋がりの同級生に一言。

 そのうちサワが「ホレ、ogaちゃん開会のアイサツサスッベハー」といつもの口調でご指示。
 ogaさんの簡単な挨拶が終わり、私に「挨拶を」とのご指名で、私も簡単な挨拶。

 「とにかく、乾杯スッベ」と誰かに誘われて、「乾杯~~」とあちこちからグラスのガチンコ音。
 「お久し振り」と乾杯の手が交差する中をすり抜けて、何とかAテーブルの方との乾杯が終わりました。でも、Bテーブルが残っているなあ~、と微かに頭を過ぎったのですが、まあそのうちに、と思い、グラスのビールをぐいッーと。
 そのおいしかった事。
 早速堰を切った様におしゃべりのシャワー。

 そのうちどこからともなくジクが現れ、「ヒサスブリダナ、ミキちゃん」とご無沙汰のその後の話を一通り、「なに、何とかベルの練習だって?休んじゃえば」と勝手な事をいう私に、「ンダケドヨ、一人カゲットヨ大変なのよ」とジク。解ります解ります、私もコーラスをやっているから、一人欠けてもハーモニーに影響があるのです。
 「ソノウジ電話スッカラ」、と帰る雰囲気だったのが、何と一時間はいたのかなあ~。

 ブログ繋がりの静ちゃん、sizuちゃん、公ちゃんの他に、電話繋がりのサワ、敏ちゃんに一通りの挨拶が済んだ後、50年振りの万寿子ちゃん、ハッチ(トミちゃんの愛称)との挨拶。

 「ハッチ、全然昔のままね、どうしたらそれを保てるの?」と素直に疑問を投げかけました。
 彼女はスポーツウーマンにも拘わらず昔から奥ゆかしい方でしたから、「そんな事ないわよ。」と謙遜の一言。「今にも、バスケをやりそうな感じだわァ」と私。とにかく私はハッチが好きでした。どちらかというとスポーツの苦手な私にとって憧れの存在でした。

 「万寿子ちゃんお久し振り、私はお父様にとても恩義を感じているのよ~」、「昔、英語が解らなくて、お父様の教室に参加させていただいて、解る様になったの」、「エッ知らなかった」と万寿子ちゃん。
 お父様は40年程前に他界されたとの事。昔から、「何と可愛い方なのだろう」と思っていましたが、全然変わらず、今もその美貌は健在でした。
 「Yukiko Plussさんからも時々メールをもらっているの」と携帯のメールを私に見せようとしてくれたので、「ちょっと字が見えない」とメガネを出したのですが、今度はメガネチエーンがこんがらかってしまってどうしても解けない。「サワお願い、取って」と、「ホレ、トレダズ」、でも遅かった、携帯は閉じられていたのです。これがとても心残りでした。

 そのうち万寿子ちゃんが「一緒に写真撮ろう?」と誰かの携帯でパチリ。
 そのうちあちこちで「パチリ、パチリ」とシャッターの音。

 その間も引っ切り無しにお店の感じの良い店員さんが、おいしいお料理とワイン、お酒を運んでくれました。どのお料理もかなりおいしい。
 でも、じっくり味わう暇が無いほど、積もる話に盛り上がり、今思うと「シマッター、あのスパゲティーもっと食べておけば良かった」と後悔しきり。

 一通り再会の行事が終わって、落ち着いたところで、ブログ繋がりのsizuさんと会話を楽しみました。
かねがね聞きたいと思っていました同級生のご主人との馴れ初めを伺ったところ、やはり想像していた様に、熱烈なアタックがあったとの事。ドラマチックな半生も話して下さいました。
 sizuさんとは20年振りの再会でした。父親の一周忌に帰省した折、「よねや旅館」に一泊した際にお会いしました。当時子供達は4才と6才、その事を鮮明に記憶されていました。嬉しい限りです。

 そんなこんなの中、最も威勢の良いのは敏ちゃん、青春真っ只中の日常を披露してくれましたが、我々常人にはかなり刺激の強い話ばかり。彼女のスケールの大きさには脱帽ですが、一方「彼女を理解する人は少ないだろうなあ~」と思いつつも、彼女独特の魅力にはすっぽりはまり、いつまでも友達でいたい一人です。

 富貴ちゃんは、クラスが一緒になった事がなく記憶には無かったのですが、良く伺って見ると、「軽井沢サスンデンダ、ホレジョウコウズのチカクダッペ」と懐かしい上山弁で話して下さいました。
 思わず「心地良いなあ~、上山弁は」とつくづく思った一瞬でした。

 そのうち、サワが「ミゴちゃん、コッチサクッダベー」と誘われたところが、康夫さんと公ちゃんの前の席。康夫さんのお兄さんと私の長兄は昔友達だった縁で、その話を一通りした後、何故か、「良い夫婦とは」について、お二人の訓話を伺い、「幸せなんだなあ~」と率直に「ご馳走様」を言いました。

 一番端に陣取っていた花屋さんからは、「絵画展」のご案内はがきを頂きました。聞くところに依りますと、「CG(コンピューター・グラフィック)アーティスト」と理解しましたが、帰宅していただいたハガキを拝見する限りでは絵画の方でした。私の早とちりでした。ダンディな感じのワイン片手がぴったりの花屋さんには、昔の色白の面影はありませんでしたが、とても穏やかなそして魅力的な方でした。

 長岡さんとは二次会でご一緒しましたが、とても面白い方でした。実は、私の記憶には無かったのです。ごめんなさい。

 木村勲さんとは、直接お話をする時間がありませんでしたが、今度お会いした時は、是非お話を伺いたいと思います。

 ほぼ4時間近くの同級会でしたが、まだまだお話足りない事ばかり、その分は次回に譲りましょう。

 最後になりましたが、ほぼ50年振りの再会の方達が多い中、一瞬のうちにタイムトンネルを通り過ぎ、まるで、日常的な生活圏の中にいる友達の様に歓迎していただき、接していただきました。
 感謝、感激です。
 有難うございました。

2009年9月29日火曜日

再び同級会モード

 9月26日(土)夕の「佐藤美樹子さんを囲む集い」は、
ご出席いただいた皆さんのご協力で、
ミニ同級会として楽しく盛り上がることができました。
 
 埼玉県日高市在住の美樹子さんはこの日、
ご母堂様の13回忌法要で帰省されたものです。

 中学時代に親しかった方々が中心となって
上山、山形在住の同級生に呼び掛けたところ、
総勢15人の賑やかな集いとなりました。
 
 出席なさったのは美樹子さんご本人をはじめ澄子さん、
靖子さん、万寿子さん、敏子さん、公子さん、富貴子さん、
トミ子さん、静子さん、恒子さんの女性10人と、
康夫君、隆君、一雄君、勲君、ogaの男性5人。
 
 会場は「箸で食べるイタリアン」の「イガッタ」という店。
JR山形駅西口から歩いて5分のところでした。

 開始予定の17:30を少し過ぎたところで全員がそろい、
堅苦しいあいさつは必要なし-という澄子さんの“お言葉”もあって、
美樹子さんが一言あいさつした後は、乾杯ももどかしく一気にフリートーク。

 50年前にタイムスリップした会話は、
堰をきった流れのように勢いよく渦巻いた感じでした。

 最初は向かい同士とか隣同士の会話。それが、
すぐに斜め向かいや一人おきへと相手が変わり、
端から端にも飛んで、声も次第に大きくなっていきました。

 話の内容も「〇〇君は今、何処にいるの?」と
現在の消息が話題になっていたかと思うと、
一転して「あれはよ…」といって、たちまち子供の頃のエピソードが暴露される。

 50年前かと思えば、数年前の同級会だったり、
小学時代かと思えば中学時代だったり、
話はあっちへ飛んで、また引き返す。
複雑な綾掛け会話が同級会の特色かもしれません。
 
 そして「小さい頃の話は私に任せろ」といって、
腕白坊主だった男性たちのエピソードを
次々と披露してくれたのは公子さん。

 中学時代は物静かで控え目な方との印象でしたが、
その迫力は「F組女性陣」に引けを取らない方に変身しておられました。

 男性では上山在住の康夫君から豊富な情報と
楽しい話題を提供していただきました。
この日、東根市での会議に出席した後、
真っ直ぐ駆け付けてくださったのは勲君です。

 一雄君とトミ子さんは自彊術の教室で一緒になるとのことでした。
隆君は9月25日(金)から10月13日(火)まで
仙台市秋保温泉の「ふれあい小さな美術館」で
息子さんと一緒に絵画展を開催中とのことでした。

 万寿子さんからは若くして亡くなられた
実のお父さんの歌集について
新聞記事のコピーを通して教えていただきました。

 実家が一軒隣の靖子さんからは学生時代、県内の山々に登った話や
教壇に立った話、そして虚空蔵山のデワノハゴロモナナカマドは
「私の父親が名付けた」という逸話も披露していただきました。

 この日、初めてお会いした静子さんと富貴子さんは
小生の実家近くにお住まいで、静子さんからは
ダンスの写真を見せていただきました。

 上山の実家には週に1度は帰っているため、
又お目にかかる機会があるかもしれません。
 
 美樹子さんを含め澄子さん、敏子さん、恒子さんの
F組女性陣を除く方々、皆さんと話をすることができました。

 実はある方から「こんにちは、ご無沙汰しています」
「さようなら」だけでは駄目。皆さんと話をして、楽しむようにとー
ご助言をいただいていたものです。
今回は何とか実現できました。

 しかし、ほかの皆さんの満足度はどうだったのでしょうか。
料理は美味しかったのでしょうか。飲み物は十分だったのでしょうか。

 そして最後に話が出た「古稀の修学旅行」は
楽しみにしていてよろしいのでしょうか?

 

 

2009年9月27日日曜日

同級会モードからテニスモードへ

 ミニ同級会で盛り上がった皆さん、お疲れ様でした。
一夜明けた27日(日)は高畠町太陽館のテニスコートで
置賜地区の方々と交流試合に汗を流しながら、
芋煮会を楽しんで来ました。

 太陽館はJR高畠駅と温泉が一緒になった施設。
温泉のある駅舎として有名です。
その一角にテニスコート(2面)も整備されています。

 この駅舎に近いコートで米沢シニアテニスクラブの方々が毎年、
テニスと芋煮会を楽しむ親善交流の集いを開いているとのことでした。

 今年4月から山形県シニアテニス連盟の事務局を担当するようになったことから、
米沢クラブの会長さんが招待してくださったものです。

 前夜の同級会モードからテニスモードに切り換えて、朝7時に起床。
7時半に家を出て、8時12分山形駅発の普通列車で高畠に向かいました。

 座席に着くなり売店で買い込んだ駅弁を開き、
蔵王駅から茂吉記念館前、かみのやま温泉駅などを眺めながら、
朝食を取っているうちに、何故か同級会のことは頭から消えていました。
上山を走っているにもかかわらずです。

 食べることに夢中だったのか、テニスに集中しているのか、
それとも新たなことは記憶にとどめられないという加齢に伴うものなのか。
赤湯を過ぎるあたりでふうっと思い直すと、一瞬どきりとしてしまいました。
 
 テニスと芋煮会は楽しいものでしたが、
このどきりが効いて同級会よりも先に
モードの切り換えを投稿してしましました。

 10月5日(月)は自分が所属する山形シニアテニスクラブの芋煮会、
10月7日(水)8日(木)は1泊2日の日程で
東北マスターズテニス大会(仙台市)への出場と、
テニスの行事が続きます。
加齢に伴うことがないように…と、
意識しながら動き回るしかありません。

2009年9月22日火曜日

全国かかしまつり


しばらくぶりのアップです。ご無沙汰しておりました。


シルバーウイーク中いかがお過ごしですか?


上山も秋祭り(八幡様のお祭り)、かかし祭り、街道


祭り(楢下宿を中心として羽州街道の飛脚駅伝)な


どを19日~23日に開催されています。


と言うわけで昨日かかし祭りにいってきました。会場


は市役所東隣の市民公園です。世相を反映して(?)


天地人をテーマにしたものが多いようでした。


エコをテーマにした小学生の作品も沢山ありました。


2020年まで1995年比CO2、25%削減を目指す


には私たち一人ひとりが毎日の生活の中で意識して


いかないと、、、と思いました。27日まで開催されてい


ます。






敬老の日と還暦野球

敬老の日の21日は山形も好天に恵まれ、山形市長杯還暦野球大会という
高齢者の野球大会を主催し、自らもプレーを楽しみました。

朝6時40分に自宅を出て、霞城公園の中にある野球場で、
ダイヤモンドのライン引きに始まり、審判を務めたほか、
自チームが出場する試合では監督をしながら
ショートを守ったり、キャッチャーをやって
目いっぱい体を動かしてきました。

還暦野球は文字通り60歳以上の野球です。
この日の大会は例年、10月の体育の日を中心に開催してきましたが、
今年は会場となる野球場の関係で、敬老の日が開催日となりました。

敬老の日としては「元気なおじいちゃんたち」ということで、
地元の報道機関に格好の話題を提供したようです。
何社かのテレビニュースで放映されました。

本人たちは万年・野球小僧のつもりで張り切っておりますが、
体の方は正直なものです。
頑張れば頑張るほど珍プレーとなってしまいます。

個人的には70歳になっても野球をしたいと考えています。
還暦野球よりも1ランク上(?)の古稀野球の全国大会があるからです。

昨日の試合は6-6の同点でしたが
大会規定によって抽選で勝ち上がったため、
今日22日は準決勝に出場しなければなりません。
さらに閉会式が終わるまで大会主催者側としての務めも残っています。
7時半に家を出て頑張ってきます。

2009年9月19日土曜日

愛称

澄ちゃん、敏ちゃん、恒ちゃん、靖ちゃん、静ちゃん、万寿子ちゃん、トミちゃん、公ちゃん、富貴ちゃん…とキーボードを打っているうちに、なぜか「ふぅー」とため息がもれた。

緊張しているのかな-。小・中学校の同級生とはいえ、
これだけ女性の愛称を口にしながら(?)記した経験はない。

傍に誰がいるわけでもないのに、気恥ずかしさがこみあげてくる。
ということは、この方々は今でも、名前だけで人をときめかせるものを持っているのかな?

 「まさかぁ。少なくとも彼女たちはお前さんより年上だよ」。
(小生は早生まれ。多くの同級生より1つ若いつもりでいる)

だが、50年前に次々と口にすることができていたなら、
人生が変わっていたかな。もしかしてバラ色? 
ということはあり得ないなあ。むしろバラバラ色だろうね。

現実性のない、途方もないことを想い浮かべているうちに?・?・? 
今日は何を書くつもりだったのかなあ。一瞬、考えてしまった。

最近、こうしたケースは珍しいことではない。
例えばグラスを取りに行って戸棚の前に立つと、
あれ何をしに来たんだっけ?ということを繰り返している。

話が横にそれてしまったが、今月26日(土)午後5時半から山形市で、
埼玉県からご帰省なさる美樹ちゃんを囲み夕食会を開く。

その出席予定の方々を紹介するために、パソコンを打ち始めたものだった。
前記の方々のほか、男性では康夫君、一雄君、隆君が出席してくださる予定。

久しぶりのミニ同級会なので、皆さんよろしくーということお伝えするために、
ファーストネームというか愛称(親しみをこめたつもり)で
書き始めた文章がこんな形になってしまいました。

2009年9月15日火曜日

続・3年F組の女性

もう1人、F組女性との会話から。

「〇〇ちゃんを囲む夕食会の場所、決まったがあ?」。
「はい。山形テルサに近いイガッタ(Igatta)という店に決めました」。

「何、エガッタ? ほだな店あんの?」。
「エガッタではなくイガッタです! 煙突のエではなく、石ころのイ!」

「んだがらエスころのエだべ」。

「石畳のイですよ」「エスダダミのエ」。
「糸のイ」「ほいずはエドっだなあ」。
何だかからかわれているような気がする。

そして「イチローのイですよ」と言うと、
急に口調が変わり「そうね、エズローとは言えないわね」。

ということで、最初から分かっていたらしい。
そして追い打ちがきた。

「イガッタでエガッタ!エガッタ! あはははー」。
「・・・」。あっけにとられて返す言葉がない。
3年F組は女性上位と聞いていたが、
まさしくその通りかもしれない。

3年F組の女性との会話から

ある朝、8時少し前に電話が鳴った。

「もしもし…」。寝ぼけ声で受話器を取ると
「あぁogaちゃん? **子です。おはよう。起ぎっだけべー」と、
おっそろしく元気な声が飛び込んできた。

「ogaちゃんは朝5時ごろ起ぎでマイニズ散歩してるてゆったけずねー」。
「???」。朝はけっして早いほうではない。
たまに5時ころ目を覚ますことはあっても、せいぜいパソコンに向かう程度。
散歩に出たことは一度もない。
この時も、まだ布団の中だった。

「誰かと勘違いしているのかな」と思いながら、
生返事をしていると「〇〇ちゃんから電話あったけベー」。
再度「???」。
〇〇ちゃんがよく聞き取れない。
「えっ、誰からですか?」。「〇〇ちゃんョ、〇〇ちゃん」。どうしても聞き取れない。

無言でいると「何、分がんねの。〇・〇・ちゃ・ん!」。
語気が一段と強くなった。「今度、ヤマガダさ来る同級生だべずー」ということで、
何とか〇〇さんの件であることが分かった。

用件は「私ョ、上山さえぐ用事あっから、
その帰り〇〇ちゃんば乗せてくっがっらナ」ということだった。

3年F組の女性は幾つになっても迫力がある。
濁音に語尾の強い話しぶりは“郷土文化”を継承なさっている証でもあろう。
そして温もりがある。でも〇〇ちゃんと呼んでいた名前は今もってわからない。

2009年9月14日月曜日

上山出身のピアニスト。


 大分前になりますが、上山在住の吉野静子さんから月刊ミニマガジン「かみのやま」を送っていただきました。

 早速目を通したところ、最初に目に留まった記事が、上山出身のピアニスト永田美穂さんによる寄稿文、「パリでの音楽修行」についてでした。

 「アレッ、永田歯科医院のお孫さんかしら?」と思いながら、その記事を読みました。

 上山小から上山北中卒業後、東京の桐朋女子高校音楽科を経て桐朋学園大学演奏学科を卒業後、フランス、イタリアに音楽留学をし、現在はパリ在住との事。

 その間、各種コンクールに参加、入賞、そして時々帰郷し、故郷でのコンサートを開かれているとの事でした。
 最近では、8/30に上山で開催されました。
 謂わば日本における若手のホープというところでしょうか。

 また留学中は、練習やコンサートの合間を利用してフランス語のレッスンに通い、それも何とか克服されたとの事。
 活動拠点がヨーロッパの為、演奏旅行の先々で、現地在住の日本人や知遇を得た人々の歓待を受け、日本人として立派な民間外交を果たされているご様子には感銘を受けました。
 我ら同郷の誇りとして、暖かく見守りたいものですね。

 ちなみに、昔まだ小学低学年だったころ、確か虫歯の治療で、母親と共に同医院を訪ねた日の事を思い出しました。
 治療台に上がった途端、「嫌だ~」と大ゴネをし、先生をはじめ周りの方々のやさしい説得にも屈せず治療台を降りた途端、先生の一言「こんな我儘な子供は初めてだ!!」 と怒られた事を思い出しました。
 機会がありましたら、永田美穂さんのコンサートに行きたいものですね。

2009年9月10日木曜日

かみのやま温泉「山城屋旅館」

【歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿は高橋健三君の生家】
 「歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿」として知られるかみのやま温泉の山城屋旅館は静岡県藤枝市在住の東濤会会員・高橋健三君の生家でもある。健三君の祖父・高橋四郎兵衛さんが茂吉翁の実弟で、茂吉翁の著書や遺墨、書簡、写真などが数多く残されている。
歌聖の息遣いが伝わってきそうな山城屋旅館館内には常設展示室が設けられ、その一部がいつでも見ることができるという。母親がアララギ系の歌人でもあった鈴木正朗君と同旅館を訪ね、健三君の兄・豊二さんから山城屋と茂吉翁の思い出などをお聞きした。

《祖父は茂吉翁の実弟》
 山城屋旅館はかみのやま温泉の湯町地区にある。大正ロマンを感じさせる純和風の木造3階建て。美しい日本庭園を備え、2階には茂吉翁の書跡展示室がある。
 四郎兵衛さんは幼名を直吉といい、山城屋の養子になって四郎兵衛を襲名した。生涯、兄の茂吉翁を慕い、誇りにしていた。茂吉翁も帰郷した際はきまって山城屋に滞在し、四郎兵衛さんばかりでなく、甥の重男さん(健三君たちの父)を「シゲオ、シゲオ」といって可愛がり、外出にはよく同行させていた。健三君たちを膝の上に抱いてくれることもあり、家族のようにして寛いでいたという。山城屋滞在中に詠んだ歌も何首かある。

《茂吉翁の頭をなでる・やんちゃだった健三君》
 健三君より2つ年上の豊二さんは「やんちゃな健三が3歳ぐらいのとき、いたずらで茂吉の頭をなでたところ、祖父からひどく怒られたことを覚えている」という。四郎兵衛さんはよその子供でも悪さをするとよく叱った。近所の子供たちにとっては「おっかない爺さん」でもあったらしい。

《蔵王山頂に歌碑を建立》
 「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」。有名な蔵王山頂の歌碑は大正9年、四郎兵衛さんの尽力によって建立された。短歌そのものが歌碑建立のために作られ、歌碑の文字も茂吉翁が揮毫した。台座やさお石は四郎兵衛さんと重男さんが何度か蔵王に登って探し当てた。全国各地に数多く建立された茂吉翁の歌碑の中で、茂吉翁生前の歌碑はこの蔵王山頂の歌碑だけという。この歌碑建立にあたり、茂吉翁が四郎兵衛さんと重男さんに宛てた書簡も山城屋の書跡展示室に展示されている。

《貴重な資料が並ぶ常設展示室》
 貴重な資料が並ぶ書跡展示室四郎兵衛さんは山城屋の3代目。木造3階建ての建物や日本庭園は四郎兵衛さんの代に整備された。客室には「あらたま」とか「赤光」といった茂吉翁の歌集名が付けられ、どの客室からも日本庭園と蔵王の山並みが見えるようになっている。茂吉翁や蔵王に寄せる四郎兵衛さんの想いが込められているという。

《蔵王は特別な存在・子供の頃からよく登る》
 「蔵王には子供のころからよく連れていかれた。暁登山は夜8時ころ上山を出発し、夜通し歩いて山頂まで登った。歌碑のこともあり、家族にとって蔵王は特別の存在でもあったようだ」という豊二さん。この7月15日は健三君と二人で熊野岳に登り、歌碑を観てきたという。今も森林インストラクターとして活動を続ける健三君は8月24日から木曽駒ケ岳、宝剣岳、笠ケ岳を歩いてきたばかり。その原点は蔵王にあったのだろうか。そういえば健三君は子供のころからスキーも上手だった。小学校の校内スキー大会で、健三君が山頂からさっそうと滑ってくる姿をただ驚きの目で見ていたことを思い出す。
 山城屋の客室はいずれも8畳の2間続きか3間続き。ゆっくり寛ぎながら日本庭園や蔵王連峰を眺め、温泉に浸る。そして偉大な歌人・斎藤茂吉翁の足跡に触れることができる。上山城や武家屋敷までは歩いて3分から5分。首都圏をはじめ県外客にも親しまれ、リピーターが多いという。いで湯のまちの老舗旅館は文化人ぞろいの東濤会員にもお誂え向きの宿かもしれない。(小笠原英雄記)

2009年9月9日水曜日

飛鳥と平城山

皆さんお変わりありませんか。今夏、奈良県飛鳥地方の高松塚古墳や甘樫丘、飛鳥寺、万葉文化館などを訪れ、古代国家の歴史や万葉人の歌心を育んだ地域の一端を垣間見てきました。
 今年3月から橿原市に転居した下の娘の家に1週間ほど滞在し、時には家内と2人で、時には1人で気の向くままに足を運んだものです。
 
《シートで覆われた高松塚古墳》
高松塚古墳は近鉄・飛鳥駅から歩いて約15分。小高い丘の中腹にありましたが、保存整備のためシートで覆われていました=写真= 本来の姿を見ることができなかったのは残念ですが、彩色の飛鳥美人は隣接の壁画館で見ることができました。

 大化の改新のころ、蘇我一族の館があったと伝えられる甘樫丘から大和三山といわれる香具山、畝傍山、耳成山を眺めているうち、やはり中大兄皇子と大海人皇子の兄弟から愛された万葉のヒロイン・額田王を想い起こしておりました。

 甘樫丘から歩いて20分ぐらいの奈良県立万葉文化館に寄ったところ、万葉劇場で額田王が恋と歌に生きた女流歌人として紹介されており、古代権力者たちの熱愛物語をさらに詳しく知ることができました。万葉の里は恋の里でもあったようです。
 《平城山の歌に惹かれて》
 昨年12月、首都圏に在住されている方々の忘年会で、ジローさんや伊藤さんが歌ってくださった「平城山の歌」にゆかりの磐之媛命陵にも寄ることができました。根っからの音痴で、音楽の世界とは縁遠い生活でしたが、何故か歌詞も知らない「平城山」の琴の調べが心に残っておりました。
 
 近年、その歌詞や、歌詞に出てくる古の人が磐之媛という古墳時代の皇妃であったことなどを知り、また平城山という地名にも惹かれ、一度は訪れてみたいと思っていた所です。

 近鉄・大和西大寺駅から歩いて約30分。平城宮跡の近くで、古墳の多いところでした。磐之媛は仁徳天皇の皇后で嫉妬深い女性と伝えられているようですが、情熱的な女性歌人でもあったようです。
 この日は小雨模様でしたが、傘をさしながら古墳巡りをしているという男性2人と出会いました。このうち三重県津市から来たという方にシャッターを押してもらった記念の写真を掲載するつもりでしたが、本人が写っていない陵墓だけの写真にしました。
 飛鳥も平城山も機会があれば再度、足を運んでみたいところでした。