2009年9月10日木曜日

かみのやま温泉「山城屋旅館」

【歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿は高橋健三君の生家】
 「歌人・斎藤茂吉翁ゆかりの宿」として知られるかみのやま温泉の山城屋旅館は静岡県藤枝市在住の東濤会会員・高橋健三君の生家でもある。健三君の祖父・高橋四郎兵衛さんが茂吉翁の実弟で、茂吉翁の著書や遺墨、書簡、写真などが数多く残されている。
歌聖の息遣いが伝わってきそうな山城屋旅館館内には常設展示室が設けられ、その一部がいつでも見ることができるという。母親がアララギ系の歌人でもあった鈴木正朗君と同旅館を訪ね、健三君の兄・豊二さんから山城屋と茂吉翁の思い出などをお聞きした。

《祖父は茂吉翁の実弟》
 山城屋旅館はかみのやま温泉の湯町地区にある。大正ロマンを感じさせる純和風の木造3階建て。美しい日本庭園を備え、2階には茂吉翁の書跡展示室がある。
 四郎兵衛さんは幼名を直吉といい、山城屋の養子になって四郎兵衛を襲名した。生涯、兄の茂吉翁を慕い、誇りにしていた。茂吉翁も帰郷した際はきまって山城屋に滞在し、四郎兵衛さんばかりでなく、甥の重男さん(健三君たちの父)を「シゲオ、シゲオ」といって可愛がり、外出にはよく同行させていた。健三君たちを膝の上に抱いてくれることもあり、家族のようにして寛いでいたという。山城屋滞在中に詠んだ歌も何首かある。

《茂吉翁の頭をなでる・やんちゃだった健三君》
 健三君より2つ年上の豊二さんは「やんちゃな健三が3歳ぐらいのとき、いたずらで茂吉の頭をなでたところ、祖父からひどく怒られたことを覚えている」という。四郎兵衛さんはよその子供でも悪さをするとよく叱った。近所の子供たちにとっては「おっかない爺さん」でもあったらしい。

《蔵王山頂に歌碑を建立》
 「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」。有名な蔵王山頂の歌碑は大正9年、四郎兵衛さんの尽力によって建立された。短歌そのものが歌碑建立のために作られ、歌碑の文字も茂吉翁が揮毫した。台座やさお石は四郎兵衛さんと重男さんが何度か蔵王に登って探し当てた。全国各地に数多く建立された茂吉翁の歌碑の中で、茂吉翁生前の歌碑はこの蔵王山頂の歌碑だけという。この歌碑建立にあたり、茂吉翁が四郎兵衛さんと重男さんに宛てた書簡も山城屋の書跡展示室に展示されている。

《貴重な資料が並ぶ常設展示室》
 貴重な資料が並ぶ書跡展示室四郎兵衛さんは山城屋の3代目。木造3階建ての建物や日本庭園は四郎兵衛さんの代に整備された。客室には「あらたま」とか「赤光」といった茂吉翁の歌集名が付けられ、どの客室からも日本庭園と蔵王の山並みが見えるようになっている。茂吉翁や蔵王に寄せる四郎兵衛さんの想いが込められているという。

《蔵王は特別な存在・子供の頃からよく登る》
 「蔵王には子供のころからよく連れていかれた。暁登山は夜8時ころ上山を出発し、夜通し歩いて山頂まで登った。歌碑のこともあり、家族にとって蔵王は特別の存在でもあったようだ」という豊二さん。この7月15日は健三君と二人で熊野岳に登り、歌碑を観てきたという。今も森林インストラクターとして活動を続ける健三君は8月24日から木曽駒ケ岳、宝剣岳、笠ケ岳を歩いてきたばかり。その原点は蔵王にあったのだろうか。そういえば健三君は子供のころからスキーも上手だった。小学校の校内スキー大会で、健三君が山頂からさっそうと滑ってくる姿をただ驚きの目で見ていたことを思い出す。
 山城屋の客室はいずれも8畳の2間続きか3間続き。ゆっくり寛ぎながら日本庭園や蔵王連峰を眺め、温泉に浸る。そして偉大な歌人・斎藤茂吉翁の足跡に触れることができる。上山城や武家屋敷までは歩いて3分から5分。首都圏をはじめ県外客にも親しまれ、リピーターが多いという。いで湯のまちの老舗旅館は文化人ぞろいの東濤会員にもお誂え向きの宿かもしれない。(小笠原英雄記)

1 件のコメント:

oga さんのコメント...

春の蟹仙洞と同じように高校の同期会で発行している会報の「会員歴訪」というコーナーに掲載した原稿を、上山小・中学校の同期生の皆さんにも…と思い、投稿しました。

蔵王山頂の歌碑が健三君のお祖父ちゃんのご尽力によって建立されたとは知りませんでした。健三君は今夏、お兄さんと熊野岳に登り歌碑をみてきたばかりだそうです。

また、木曽駒ケ岳とか宝剣岳、笠ケ岳といったアルプスの山々を歩き、なかなかお元気なご様子です。

小・中学校の同期生の皆さんと一緒に、健三君から山の話などを聞かせていただく機会がありますように…と期待を膨らませています。