2008年2月21日木曜日

「疎開」と小学校入学の頃

 12月9日の有志懇親会でジローさんと久し振りに会い「私kasのことは印象に残っていない。」と言われました。前に旧姓羽島トミ子さんからも同様に言われました。

 この時小学1年の時に母から与えられた教訓「大きい川は、静かに流れる。」を実践できたと私は少しうれしく思いました。二人とも中三のF組一学期は、旧姓岩瀬明子さんと私が共に学級委員を奥ゆかしく果たした事実を想い出して貰えなかったのです。

 さて私は、横浜市鶴見区で生れました。当時父親は「いすず自動車川崎工場」の軍用トラック検査係長で、中国戦線向の生産に大車輪でした。従って待遇がすこぶる良く、3人の兄姉はもちろん幼稚園に入り、「キンダーブック」なる幼児教育用の月刊誌をとり母が丁寧に読み聞かせていたようです。

 しかし戦争が激しくなり、昭和20年3月10日の東京大空襲を父親が多摩川のそばの川崎工場で見て両親の故郷上山に3月末に「疎開」することを決断しました。その時私は満三歳4ヶ月でしたがその前後の有様が今でも思い出されます。衣類は着られる限界まで重ね着し、満員の奥羽線夜行列車に家族で乗込みました。板谷峠でのスイッチバックの車両の振動、上山駅で窓からの下車、汽車の煙のにおい等緊迫した中で強く印象に残っています。

 その後兄姉三人は、小学校に入りましたが、残酷な厳しい「いじめ」に遭いました。服装、言葉遣いに違和感を持たれ、異邦人のように扱われたのでしょう。

 母は私の入学時いじめを心配して「疎開の話はタブーにするよう」指示しました。私自身は①口喧嘩では負けないこと②力の暴力は素早くかわすことを真剣に心掛け若干元気すぎたようです。

 幸い良い友人たちに恵まれ登下校は楽しいものでした。近くの宗川利宏君とmaruabeさんの家にほとんど毎日押し掛けました。そして私は国語の本を取り出しいつも音読していました。市長をやられた阿部さんのお兄さんからうるさかったのでしょう目読のしかたを教わりました。毎日毎日国語の本を取り出して読んでいるうちに、ついには裏表紙が外れてしまいました。これを見た担任の先生は、3学期の通信簿に私の性格が「乱暴で粗雑」と書きました。

 プロテスタントだった母親は、大変悲しがり文頭の「大きな川は、静かに流れる」と性格を変えるよう判り易く諭してくれました。 その母親も2000年まじかに静かに逝き今はもういない。

                   2008年 2月  柏倉 孝

1 件のコメント:

ジロー さんのコメント...

 実は、同窓会の帰りにやっと柏倉さんの美少年時代の顏を思い出したのです。大変失礼致しました。でも、中3の時に同じクラスだったとは本当に知りませんでした。中3と言えば、高校受験を控えていたので、心の余裕が無かったのかも・・・。