2010年5月24日月曜日

蔵出し・時速5㌔の伊勢参詣⑨

【8日目】小山市~古河市
《江戸と日光の中間、縁結びの榎》
足首からつま先にかけての腫れが前日よりもひどくなっているようだ。肉離れなら痛みは10日ぐらいとれないだろう。9時少し前から歩き始めた。無理をせずゆっくり歩くだけ。栗宮、間々田、友沼、野木といったかつての宿場町が過ぎて行く。
間々田には「逢の榎(あいのえのき)」という石碑があった。間々田は江戸と日光の中間に当たる。その目印に榎が植えられた。当初は「間(あい)の榎」だったが、いつの頃からか「逢の榎」となり、縁結びの榎になったという。

《山形から館林へ向かう女性の道中絵巻》
小山市から野木町に入ったところで「日光道中 野木宿周辺の松並木」という案内板があった。日光街道といえば杉並木が有名だが、この辺りは松並木になっていたらしい。
「松風を琴の調べに聞きなして心なぐさむ旅の道野辺」―。今から160年ほど前、山形藩主が館林へ国替えになったとき、山田喜太夫という家臣の妻・音羽(とわ)が道中記のなかに残した歌で、間々田から友沼へ向かうあたりで詠んだらしい。
暑さと疲れた体に、松並木を渡ってくる風が、涼しく感じたのかもしれない。道中記には「松並みの間に小石が敷かれ足が痛い」といったことも記され、杉並木ではなく、松並木であった当時の様子がうかがえる-などと紹介されていた。

《藩主の国替えで家臣の家族も引越し》
音羽夫人はなかなかの才媛だったらしい。歌も文も絵もこなし、道中記は「御国替絵巻」として残されている。藩主の国替えに伴い、山形から館林に向かう家臣や家族に思いをはせながら古河を目指した。
今は歩道があって歩きやすい。足を痛めているとはいえ、ぞうり履きで歩きにくかった昔の街道に比べれば楽なものだろう。午後2時過ぎに古河駅前に着いた。小山市から歩いた距離は10数㌔。いつもの半分程度だが、この日は古河に泊まる。駅前の食堂で遅い昼食をとった後、電話で近くのビジネスホテルを予約した。3時過ぎにチェックインし、部屋でゆっくり休んだ。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

上山には、三河から松平さまが、城主として、いらした(思い違いでなければ・・・)、と、昨年、お墓参りの時、従弟が教えてくれて、お墓に案内してくれました。ご子孫がまだいらっしゃることも・・・です。

その時、山形からは館林に移られたのですか・・・。

知らないことだらけです。

書いてくださって、ありがとうございました。

それから、肉離の原因は何ですか?こちらで、あまり、聞いたことがありません。教えて下さい。

雪子

oga さんのコメント...

藩政時代の殿様は“転勤”が多く、上山、山形の藩主も何度か代わっているようです。

上山には高槻や飛騨高山、岡山方面から“転勤”してきた殿様もいるそうです。

三河の松平さまは早い時代に赴任(?)した殿様かもしれませんね。

足を痛めたのは、しっかり鍛えていなかったため、オーバーワークとなり疲労性の炎症だったのかもしれません。